教育の十分性(心地よい敗北)
1月14日(水)
新しい年が始まり、入学試験等々で忙しい日が続いた。朝のこの時間にホッとすることはあまりないが、今朝は朝日を浴びながらお茶を飲んでいる。若い頃から午前の10時台、午後1時台の時間帯が無性に好きであった。皆が忙しく動く時に、心の中でそこを抜け出し、しばし人の流れを見ることで豊かになる自分を知っていたからだ。贅沢なことであろうが、一瞬でもこのように感じる姿勢を持ち続けたい。
ゆとりのあるときには生徒にも心が通じるのか、1時間目が終え教室の戻る3年生のT君が、庭側の窓を叩いてあいさつをしてくれた。K君はある企業への就職が決まっているが、将来に大きな希望を持ち、その思い語ってくれた。若者に夢をもたせるのが社会であり、学校でなければならないだろう。授業を生徒にとっての必要性とするならば、生徒にとっての教育の十分性をしっかり考えるのも学校の使命であり、夢を育む心を醸成するのでないか。3年生は間もなく社会へ巣立つ。その社会は夢を描けるような状況ではないが、こういう時代だからこそ、教育の十分性が問われてくるのでないだろうか。
校長室に3年生の美術の時間の作品(小物入れ)が数個飾ってある。彫刻を施したもので、高校時代の思い出を詰め込むにふさわしい作品である。その中にM.Tさんのウサギとキノコの図柄の作品が、愛らしさとファンタジックな雰囲気を与えている。偶然にもM.Tさんとこんなことがあった。週末に燃えるごみは自宅に持ち帰り、庭の落ち葉と共に処分している。校門で帰り際の生徒に、「自分のごみを自分で処理する」心得を説いた。しかし、一人の女生徒が、紙はキチンと伸ばし重ねて古紙利用を考えたほうがいいのではないかと話してくれた。今に生きる大切な心得を持った生徒がいることに快い「敗北を」を感じた。この生徒が実はM.Tさんであったことも、教育の十分性を感じた瞬間だ。

