犬童 健良教授
前口上
ITの役割と使命は、PCに閉じこもった世界から、ネットにつながり、無線とモバイルに延長されたことによって、その意味を変えました。わずらわしい手間を要する作業から私達を解放し、より付加価値を生みやすい諸活動へと導くものとして。いってみれば、かつて掃除機や洗濯機が、家事労働を軽減したことにそれは似ており、もはや洗濯板と石鹸で衣服を洗う時代に戻ることはなさそうに思えます。本文書は、ITの現実応用に少しでも関心を持ってもらうために、最近、いくつか気になった記事を挙げておこうと思います。また以下の文章は、経営情報論のレポートや定期試験に題材として用いるかもしれませんので、注意深く読んでください。内容は以下の3項目についてです。
なお前述の授業では、クラウド(SaaS)についても執筆するつもりと言いましたが、別の機会に譲ります。
流通BMS
流通サプライチェーンは、商品の製造・流通・販売(製・配・販)にわたって商品(とくに消費財)を消費者に届けるしくみです。たいてい複数の会社を経由しますが、さまざまな業態あるいは商品分野で、少しずつ違ったタイプのメッセージがやりとりされてきました。
企業間の電子的データのやり取りには、これまで共通の仕様がなかったわけではありません。EDI(JCA手順)と呼ばれる仕様が1980年から用いられてきました。しかし業態間、あるいは商品分野が違いますと、情報連携がうまくいかず、消費者にメリットを提供する仕組みとして改善すべき点がどうしても残ってしまいます。またその原因のひとつが、情報交換の内容と方式がじゅうぶん標準化されていないことだと指摘されていました。しかし、この問題を個別企業の努力だけで解決することは困難だったのです。
代替手段としてWebEDIが作られたのですが、これも問題がありました。インターネットを通信インフラに採用して通信速度は向上したが、モデム類などハードウェアの管理が必要で、ソフトウェアも全自動でなく部分的に手動操作が必要とされたり、各社個別の画面になるなど、かえって業務を非効率にしたり現場を混乱させてしまいました。結局、EOS、EDI、WebEDIといった複数のしくみがすみ分ける状況となり、取引先がたくさんある会社の悩みは減るどころかますばかりでした。
そのため、経済産業省は2003年度~2005年度の3年間、「流通サプライチェーン全体最適化促進事業」、また2006年度から2009年2月までは 3ヵ年計画で「流通システム標準化事業」を実施し、新しい標準EDIを「流通ビジネスメッセージ標準」(流通BMS)と名付けて策定を進めることにしたのです。
BMS(Business Message Standards)は、通信基盤にインターネット(TCP/IPべースの3手順)を使い、業態ごとのメッセージフォーマットを標準化し、セキュリティ対策も含め、統一ルールの下で運用するしくみになっています。以下に流通BMSに採用されている3つの通信手順を簡単に説明します。
国際標準。アジアでの採用が多い。取引量が多い大企業向き。
EDINTが策定した国際標準。ウォルマートで採用。取引量が多い大企業向き。
国際標準に基づく日本独自の通信手順。取引データ量が少ない中小企業向き。
画像情報を含む流通BMSにより、取引業務のスピード化、業務の正確性向上、コスト削減など、多大な効果が期待されます。取引先コードや商品コードには、「共通企業識別コード(GLN)」や「共通商品識別コード(GTIN)」が採用され、取引の国際化に対応しています。またデータ表現形式にはXMLが採用されたことにより、固定長データだったJCA手順では不可能だった豊かな情報を扱えるようになりました。
またJCA手順では、通信インフラが電話回線でしたので、高々2400bps/9600bpsの通信速度しか得られず、膨大なデータをやり取りしなければならない卸・メーカーや小売店は参ってしまいます。アフリカのある国で,同じデータをアナログモデムで通信すると半日かかるが、伝書鳩にUSBメモリくくりつけて送ったら数倍早かったという笑い話があるそうですが、実は日本で起きた出来事だったという可能性もあります。ブロードバンド環境が整備された現在の日本なのに、そんなことが起きるのは”Shame!”でしょう。
実運用に向けて、スーパー業界では、他に先駆けて2007年4月に業界向け流通BMSの基本形が公開されており、その導入に進んでいます。2008年度から順次、百貨店業界、チェーンドラッグストア業界、ホームセンター業界、アパレル・婦人靴業界において取引に必要なメッセージの検討、共同実証研究、仕様公開、実運用に進もうとしています。詳しくはウェブ記事[1][2]をご覧ください。
参考URL
[1] 経済産業省 流通システム標準化事業 http://www.dsri.jp/scmpjt/bms/index.html
[2] 同上流通BMS導入講座 流通システム標準化概説 http://www.dsri.jp/scmpjt/public_info/bms_seminar.html)
電子手形
日本経済新聞[3]は、電子手形(電子債権)取引が、11月に始まる予定だが、これに約7000社が参加する見通しと報じた。同紙によると、ホンダ、JFE商事、パナソニックなど主要企業10社は、三菱東京UFJ銀行の子会社を通じて発行される電子手形を、下請け企業への代金支払いに使うための準備を進めているそうである。一方、従来からある手形取引は偽造や盗難などの問題もあって、取引量が激減しているため、中小企業の資金繰りに影響していると同記事は分析している。また参加企業は数万社規模に拡大する可能性が高いと推測されている。翌日に同紙[4]により、信金による導入が報じられ、また13日に積水ハウスによる導入がMSN産経ニュース[5]によって伝えられた。建設業界はすそ野が広いことで有名だが、積水ハウスの場合、利用対象は取引先など約1千社、コスト削減3千万円以上と予想されている。
信金中央金庫の資料[6]によると、電子手形サービスとは、支払情報(支払金額、支払期日、受取人)を電子化して、従来の企業間信用取引をインターネット上で行う決済サービスである。(なお電子手形は、現物の手形と類似した使い方ができるが、手形法上の手形ではなく、電子記録債権法によって規定されると考えられる。)
同資料によると、電子手形サービスは、その利用者、提供者、運営者の3者で構成される。利用者である企業(法人・個人事業主)は、電子手形サービスを提供する金融機関を通じて、運営者である電子手形センター(および電子認証局)に申込みすることにより、電子手形サービスを利用することが可能である。
電子手形の導入は、印紙や領収書の発行量を減らし、取引先による集金や金融機関に行く手間を省く。沖縄実証実験の資料に示された別のメリットは、手形の分割である。従来は親企業、一次下請け、二次下請けと支払いを手形で行う際、手形を二次下請け分まで予め分割しておく必要があったが、電子手形では手形を受け取った側で金額を(一定の範囲で)自由に分割できるので、その手間を省くことができる。そのほか利用側の企業、提供側の金融機関の双方にとってメリットは色々とあるが、とりわけ企業側の「資金調達手段の多様化・迅速化」メリットと金融機関側の「運用手段の多様化」メリットが同資料中では強調されている。ただし平成16年に沖縄で行われた実証実験を通じて、未解決の問題点も多く指摘されていた。例えば
- 決済の同期性の確保
- 適切なセキュリティ確保
- 取引の安全性の確保
- 管理機関が複数並存することの是非
である。これらの点が、平成20年12月施行の電子記録債権法および今回の一連の電子手形取引導入においてどのように解決されているのかは検討を要するが、日経他の記事からだけでは不明な点がある。筆者は法律の専門家ではないため、判断は控えたい。とくに電子記録債権法では電子債権記録機関(つまり電子手形サービスの運営者)の「兼業の禁止」(第57条)が規定されている[7]。「電子債権記録機関は、電子債権記録業及びこれに附帯する業務のほか、他の業務を営むことができない。」
また、せっかく現金化が面倒な手形での支払いが減り、キャッシュで支払ってくれるようになってきたのに、電子手形に置き換えられていくことを不安視する声もネット上で見かける。その辺りの不安を解消する説明はとうぜん下請け企業に対して行われているとは思うが、注意しておくべきことであろう。
参考URL
[3] 日本経済新聞 2009年10月11日朝刊 電子手形に7000社参加へ
(日経ネットの電子版)https://docs.google.com/Doc?docid=0AXrb7VXSEqN-ZGRuenBidHZfMjczamJkOXM4ZG0&hl=en
[4] 日本経済新聞 2009年10月12日 電子手形、地銀も参加へ
(日経ネットの電子版)http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20091012AT2C1100211102009.html
[5] MSN 産経ニュース 積水ハウスが来年2月から電子手形取引を導入 2009.10.13
https://docs.google.com/Doc?docid=0AXrb7VXSEqN-ZGRuenBidHZfMjczamJkOXM4ZG0&hl=en
[6] 信金中央金庫 電子手形サービスの概要と沖縄実証実験について http://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/dai2/siryou/20060921/02-01.pdf
[7] 電子記録債権法条文 http://law.e-gov.go.jp/announce/H19HO102.html
モバイルマネー
電気通信事業者協会の統計[8]によると、携帯電話の契約数は、2009年9月で109,633,800件である。日本の総人口は、統計局によると同年9月概算で12754万人である[9]。単純に割り算すると、86%程度の普及率である。
一方、Economist誌[10]によると、アフリカでも、10人に4人が携帯電話を所有しているが、世界で最も貧しい人々に経済力を与えるツールになりつつあるという。こうした国では、悪路や遅い郵便網のおかげで情報伝達が遅滞しがちだが、そのことが経済成長に直接的なダメージを与えているのだという。同記事は世界銀行の調査を引用して、携帯電話保有率が10%増加することによって、GDP(国内総生産)が0.8ポイント上昇するという趣旨の指摘をする。「携帯電話は全世界で40億台以上使われており、その4分の3は発展途上国向けだ。」
一方、日本の携帯電話は高機能すぎて値段が高く、通信方式が国際標準でないため、そのシェアを奪うことが困難である。いわゆる「ガラパゴス化」しているというのは、とりたててこの英国の権威ある雑誌に諭されるまでもなく、(実際に同記事には日本のケータイがどうのこうのという話はいっさい触れていないが、)業界人にとってすでに耳タコであろう。
記事[10]の続きは次のように翻案できる。街角の商店で、プリペイド式携帯電話の通話料金をチャージしている。こうして新たなビジネスチャンスが必然的に生まれた。「モバイルマネー」である。そんなインフラの悪い地域に、銀行が支店を出すことは大きなリスクを伴うだろう。かといって自分で運んだり、人に預けたりするのも危ない。しかし現金をモバイルマネーの口座に預けるのは簡単だ。ケニアの「M-PESA」がその成功例である。
日本でいえば、コンビニでATMを使うのと、やや似ているところがあるけれど、モバイルとの連携がより密接である。ところでプリペイド方式のケータイが、なぜ途上国では、わざわざモバイル「マネー」と呼ばれるのか。それは前出の電子手形が手形と呼ばれ、たんなる代金引換証ではないのと似ている。それは人から人に譲渡でき、かつ現金の役割を果たすのである。他のモバイルユーザーに送金でき、相手はコード付きのテキストメッセージを受信すれば(口座があってもなくても)商店で現金を引き出すことができる。逆にスイカやエディにチャージした金額や飛行機を使ってためたマイレージポイントは、他人に送金する使い方をしない限り、有価証券ないし債権である。
アフリカやアジアやその他の貧困国にモバイルマネーが広がると、影響ははかりしれない。「ケニアのM-PESA利用者の世帯所得は、モバイルバンキングを始めてから、最大30%増えた」とかいった、かつて耳にしたデジタルデバイドを思い起こさせる統計が引き合いに出される。物理的に余計な移動をしなくてよくなったから、その分、お金の儲かる仕事に時間を割けるのだという、尤もらしい説明までつけられている。ただし、少額融資のしくみが、最貧困層にとって致命的な状態に陥るのを救う役割があるというのは、近年、いろいろな人がいろいろなところで主張するに至っているので、モバイルマネーの場合も、なるほどそうであろうかと考えさせられてしまう。
「たとえ小額でも、いざという時に頼れる貯蓄があれば、医療などの予期せぬ出費があっても、牛を売ったり子供に学校を辞めさせたりせずに対応できる。・・・中略・・・モルディブでは、2004年の津波で大勢が蓄えを失った。同国は全国民を対象とするモバイルバンキングを2010年に導入することを目指している。」([10]より引用)
金融派生商品は、ITを活用する新金融技術のかたまりであり、同時に金銭欲のかたまりでもある。それが世界的な金融危機のきっかけになったおかげで、それ自体、悪者あつかいされがちだ。同じITの金融応用でもモバイルマネーの場合、弱者の味方というわけである。もしそうならもっと広く普及してよいだろうという道義がたつ。一方、その成長を妨げる銀行と規制当局は悪者扱いだ。銀行にとって携帯電話事業者がライバルになるとか、モバイルマネーが詐欺や資金洗浄に悪用されることを規制当局が懸念すると同記事は指摘する。
しかし、逆説的ではあるが、銀行がライバルになったり、資金洗浄に悪用されたりするほど大金が安心して隠せるようになるのは、モバイルマネーが人々をある程度豊かにした後ではないかと思われる。実際、一部の銀行は携帯電話事業者と提携してモバイルマネー事業を進めるようになったという。アフリカ最大の携帯電話事業者MTNは、スタンダード銀行と共同でウガンダでのサービス進出を足がかり、アフリカ全土への展開を目指しているそうである。
というわけで、エコノミスト誌の記者はビジネスチャンスを強く訴えて記事を締めくくります。最初に述べましたように、個人的には日本のケータイには大変お世話になっています。ガラパゴス化を嘆いたところでしかたありませんが、モバイルマネーが必要なのは後進国ばかりではないかもしれません。
参考URL
[8] 電気通信事業者協会 http://www.tca.or.jp/database/download.html
[9] 統計局ホームページ 人口推計 http://www.stat.go.jp/data/jinsui/tsuki/index.htm
[10] 英 エコノミスト誌 2009年9月26日 通信産業:モバイルマネーの威力 (JBPressによる訳)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1826
以上