2010年7月27日 (火)

サッカーと地雷 ― 三谷 純子准教授

 夜中のサッカーワールドカップのテレビ観戦で、本学でも寝不足気味の学生が多かった7月が終わろうとしています。

 サッカーをはじめとするスポーツは子どもの権利と深いつながりがあります。楽しみながら体を鍛え、戦略的な思考、チームワーク、自律心、自信、リーダーシップ等を向上させることは、子どもの育つ権利の大切な一部です。貧困や差別などの理由から、麻薬や犯罪組織に関わりがちな、社会の周辺部に追いやられているような子ども達のためにもスポーツは重要な役割を果たし、子どもの守られる権利や参加する権利を促進することができます。

 けれども、世界には思いっきりサッカーをしたくてもできない子どもがたくさんいます。

 毎日家族のために何時間もかかって遠くの川や池や井戸へ水汲みに行かなければならない子。家族を経済的に支えるために働いている子。限られた種類の運動をすることしか許されない社会の女の子。そして、更に、ボールを追いかけるだけで、命を落としたり、体に障害を負う危険に身をさらす子もいます。地雷のせいです。

 20年以上の内戦が続いていたスリランカ東北部の小学校を、写真撮影の仕事で訪問した時のことです。村から逃げてきた国内避難民のタミル人の子ども達が通う学校でした。休み時間になると、校舎の裏の小さな空き地に子ども達が飛び出していき、サッカーが始まります。狭すぎて試合はできませんが、ドリブルの技を得意そうに披露してくれます。でも、その小さな校庭は、鉄条網で囲われ、鉄条網のすぐ外の藪には赤いマークがついた立て札があちこちに何本も建てられています。立て札の下には地雷が埋まっているのです。

 アフガニスタンでは、村のモスクで始められた臨時の学校の取材の際、ボールやゴールネット、チームごとの色違いのベストが詰まったユニセフの「サッカーの箱」と鉛筆やノート、定規などが入った「学校の箱」を持って行きました。途中、作業中の地雷除去班を見たので、心配になって、先生に聞いてみると、「畑や藪の中にまだまだ地雷はあるが場所が分からない。」ということでした。ソビエト軍や、タリバンや、複数の軍閥が入れ替わり立ち替わり占拠した地域では、どこに地雷を埋めたか知っている人は誰もいません。私たちも、村人が使っている道を外れないように注意して歩きました。

 地雷で命を落としたり、手足を失う犠牲者の7割から8割は、軍人ではなく、民間人です。多くの子どもたちも含まれます。子どもは珍しいものを見るとつい触ってしまいがちですが、地雷の中には、小さい蝶のような形をしているものもあるのです。

 地雷の被害にあって生き残った子どもは成長に合わせて義足を調節しなければなりません。けれども、貧しい家庭には、治療費や通院のための交通費、子どもの世話のために失う収入等の経済的負担が重くのしかかります。カンボジアで会った10歳くらいの男の子は、義足もなく、空き缶を工夫して膝にはめて移動し、皮膚が擦れて血が滲んでいました。「学校には行けない。」と言っていました。あの子は、もう大人になっているはずです。

 地雷は安価に製造できます。けれども、その撤去のための設備や訓練には多額のお金と時間が必要です。時には命も奪われます。クロアチアのUNHCRの現地スタッフは、ある日突然、夫を亡くしました。その頃、クロアチアは旧ユーゴスラビアから既に独立し、ボスニアから難民は押し寄せてきていましたが、とりあえず、クロアチアにいるクロアチア人は、ほぼ安全でした。けれども地雷は地面の中で生き続け、除去にあたった夫は事故に巻き込まれたのです。彼女は、ぶるぶる震えながら、「私がランチをしている間に、夫は死んでしまったの。」と何度も繰り返していました。

 無差別に人を殺傷する地雷問題に対し、まず民間の非営利組織(NGO)が声を上げ、各国政府や国連も賛同し、1999年に、通称オタワ条約と呼ばれる対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約が発効しました。日本も批准しています。この10年間で締約国は156になりました。残念ながら、未締約国には主要な軍事大国が含まれています。まだ製造を続けている国々もあります。それでも、少なくとも輸出禁止の処置を始めた国々もあり、また、地雷の除去のために、NGOや国連、各国の支援機関等による国際的な協力も進んでいます。日本の機械メーカーや日本政府も、地雷除去には積極的な貢献をしてきました。

 そうした世界各地での多くの人々の努力にもかかわらず、今日も世界のどこかで、誰かが地雷を埋め、誰かが地雷のせいで涙を流しています。そして、そんな国々の子ども達の多くも、本学の学生の皆さんと同じように、サッカーが大好きなのです。

2010年7月 7日 (水)

1168年前の「犬矢」 ― 磐下 徹講師

 今回は1168年前の7月7日(旧暦)のニュース解説をします。

 『続日本後紀』承和9年(842)7月7日条には次のようにあります。
 

「夜中、犬矢於御在所版位之上。(夜中、犬、御在所の版位の上に矢す。)」

 「御在所」とは当時の仁明天皇が居住していた御殿である清涼殿のこと。「版位」とは、その御殿の前庭で儀式などが行われる際、参加した貴族や役人たちの立ち位置を示すために地面に置かれた目印のことです。
 

 では「矢」とは何でしょうか?「矢」といっても「弓矢」の「矢」ではありません。
 

 この「矢」は「糞」を意味しています。ですから「犬矢」とは「犬の糞」のことです。したがってこの日の記事は「夜中に、犬が天皇の居住する清涼殿の庭で糞をした」という意味になります。今から1168年前の7月7日は、「犬の糞」により歴史上に記録されたということになります。
 
 ところでこの『続日本後紀』とは、天長10年(833)~嘉祥3年(850)までの日本の歴史をまとめた書物で、国家の命令で編纂されたものです(貞観11年(869)成立)。このような歴史書は奈良・平安時代を通じて6つ編纂され、「六国史」と総称されています。『続日本後紀』はその第4番目に位置するものです。
 

 ですから『続日本後紀』のこの記事は、国家の公的記録ということになります。「犬の糞」が公的記録に残されるということは、現在の私たちからすれば違和感のあるところです。しかし、何らかの理由があったからこそ、この「犬の糞」事件は記録に残されたのです。いったいどのような理由があったのでしょうか?

 平安時代の人々にとって、「犬矢」は「怪異」と認識され、良くないことの起こる前兆だと考えられました。例えば承平2年(932)7月5日には、「紫宸殿(重要な政務や儀式が執り行われた施設)の版位に「犬矢」が残されていた。そこで陰陽寮に占いをさせたところ、「兵革」(戦乱)に注意すべきであるという結果が出た」と記録されています(『小右記』長元3年9月16日条所引)。このように「犬矢」が残されていれば、それは良くないことが起こる前兆(この場合は戦乱)であり、それが何の前兆なのかを特定し、為政者たちは対策を講じなければならないのです(ちなみにこの3年後に、関東では平将門の乱が、西日本では藤原純友の乱が起こっています)。
 

 「犬矢」の示す前兆を特定する際には、安倍晴明で一躍有名となった陰陽師たちが活躍しました。先に出てきた陰陽寮は、陰陽頭を筆頭に陰陽師など陰陽道の専門家から構成される中央官庁です。彼ら陰陽道の専門家たち(彼らはいわば官僚です)によって占いが行われ、「犬矢」などの「怪異」が意味するところが特定されたのです。
したがって今風に表現すれば、「犬の糞」をきっかけに中央官庁に調査が命じられ、その「犬の糞」に関する調査結果をもとに、閣僚たちが閣議の場で対策を議論した、ということになるでしょうか。
 
 ですから、承和9年の場合も、天皇の御殿(清涼殿)という国家の中枢空間に残されていた「犬の糞」の持つ意味が、真剣に検討されたと考えられます。
 今の私たちからすれば、馬鹿げたことに思えます。しかし、当時の人々からすれば、とても重大な事件だったのです。だからこそ『続日本後紀』という国家の公的記録にも、この承和9年の「犬の糞」事件は記録されたと考えることができます。

 ところが、この「犬の糞」事件は、そう単純でもないようです。

 「犬矢」のような「怪異」は、良くないことの前兆だと考えられました。そのような視点で『続日本後紀』の続きを読んでいくと、注目される記事に行き当たります。それは承和9年7月17日条、「犬の糞」事件から10日後の記事です。

 この日、伴健岑と橘逸勢の謀反が発覚します。彼らが当時皇太子であった恒貞親王とともに東国(美濃国(現在の岐阜県)以東の地域)に入り、現朝廷に対し反乱を起こそうとしているというのです。この二人を中心とした関係者たちは身柄を拘束され、平安京には厳戒態勢が敷かれました。さらには、京に至る主要交通路も封鎖されました。これは事件関係者の逃亡を防ぐためです。

 この事件の結果、皇太子恒貞親王は廃され、かわって道康親王が皇太子となります。のちの文徳天皇です。これが「承和の変」と呼ばれる平安時代を代表する政治事件です。
この変の評価については意見の分かれるところですが、結果的に皇太子となった道康親王は、当時政界で勢力を伸ばしつつあった藤原良房の妹の子で、この良房がいわゆる摂関政治を創始し、藤原氏全盛期への道を切り開いた人であることを考えれば、この事件が後の歴史に大きな影響を与えていることは間違いないでしょう。
「犬の糞」事件の10日後に、このような大事件が起こっているのです。

 もちろん、本当に7月7日に「犬矢」が清涼殿の庭に残されており、それが見事に変を予兆していたと単純に考えることもできるでしょう。確かに「犬矢」の「怪異」は、現在の私たちには想像できないほど平安時代の人々に深刻に受け止められていました。とはいえ承和の変の10日前に都合よく「犬矢」の「怪異」記事が載せられているのには何らかの作為が感じられます。

 そこで注目されるのが『続日本後紀』の編者の一人である春澄善縄という人です。

 善縄は陰陽道に高い関心を寄せた人でした。そして陰陽道は、「犬矢」など「怪異」と深くかかわる思想です。すると、『続日本後紀』の編纂に際し、承和の変の10日前に慎重にも「犬矢」の「怪異」の記事を配したのは、誰あろう春澄善縄だったのではないでしょうか。
「犬の糞」事件が全くのフィクションだったとはいいきれないでしょう。しかし清涼殿の庭に「犬矢」が残されていたという「怪異」が重視され、『続日本後紀』の記事として残された背景には、その10日後に起こった承和の変を前提とした善縄の意向が働いていたのではないでしょうか。

 しかもこの善縄は、承和の変で廃された皇太子恒貞親王の家庭教師(東宮学士)を務めていたため、事件後に処罰を受けています。善縄が「犬の糞」に込めた思いは、かなり複雑なものだったのではないでしょうか。

 今から1168年前の7月7日は、平安宮の清涼殿で、政治臭をプンプン漂わせた「犬矢」が発見された日だったのです。

 犬の糞にも歴史あり。

2010年6月30日 (水)

公訴時効の廃止について思うこと ― 藤原 重紀教授

 2010年4月27日、殺人の公訴時効廃止などを柱とする改正刑事訴訟法と改正刑法が衆議院本会議で与党、自民、公明党など賛成多数で可決、成立し同日施行された。政府が同法案の可決・施行を急いだのは、翌日(28日)午前0時に時効が迫っている事件があったからと報道された。

 この事件は、1995年4月28日未明に岡山県倉敷市で発生した殺人・現住建造物等放火事件で、70歳と66歳の老夫婦が刺殺体で発見され、住宅など4棟が全焼した事件である。
 公訴時効の廃止を巡っては、犯罪被害者がこれまでも「逃げ得を許してもいいのか。」という声をあげていたものの、法改正には結びつくことはなかったが、本年1月10日、葛飾の上智大学生殺人事件の被害者遺族が時効制度の撤廃を求めて会合を開き、これに多くの犯罪被害者の遺族が参加したと報道され、この会合後、マスコミ各社において「刑事事件の時効制には合理的な理由がないのではないか。」という主張みられ、このことも世論を動かした大きな一因とみられる。

  改正法による時効見直しの対象となるのは「人を死亡させた罪」で、殺人や強盗殺人など、法定刑に死刑を含む12の罪については現行の25年が時効廃止となった。また、強姦致死など刑の上限が無期懲役刑の罪は時効の期間が現行15年のものが30年に、傷害致死や危険運転致死罪など上限が20年の罪は同じく10年から20年に、自動車運転過失致死や業務上過失致死などその他の懲役・禁固刑は同じく5年が10年になるなど、現行の時効の期間がそれぞれ2倍と延長された。

  そして、改正法は、施行された時点で時効が完成していない事件についても適用された。

  ところで、時効には民事の時効と刑事の時効があり、刑事の時効には「刑の時効」と「公訴の時効」がある。今回改正されたのは「公訴時効」である。つまり、一定期間経過することにより、犯罪の真犯人を見つけても起訴することができなくなるという国家刑罰権を排除する制度である。このような制度は世界各国にあり、我が国の母法となったドイツ法、アメリカにも存在するが、アメリカの場合、殺人については公訴時効を置かず、いつまでも起訴が可能という状況に置いている。

 我が国で、これまで時効制度をとっていた理由について、それぞれの分野で意見があるが、その一つとしては長期間にわたって追及されなかったという継続した状況・状態を尊重しようという考え方、二つめは被害感情や社会的応報感情が希薄化してきていること、三つ目は社会的影響が弱くなっていること、四つ目は刑罰の価値が低減していること、五つ目は証拠が散逸して検察・弁護双方に不利なことなどが主張されている。

  この法改正について、マスコミ各社は
・ 公訴時効制度の見直しは、期間を延長した2005年の改正以来5年ぶり。公訴時効が  廃止されるのは刑事訴訟法の前身である治罪法制定(1880年)以来初めてで、刑事政策の転換となる(毎日新聞)。
・  捜査実務にも影響する刑事司法の大転換が、約4週間という異例に短い国会審議を経て実現した(朝日新聞)。
・ 成立した法律は、現に時効が進行中の事件について時効の廃止と延長を求めるもので、憲法に違反する強い疑いがある。との日本弁護士連合会の意見(MSN産経)
等と、国による刑事政策の転換を大きく報道した。

 刑事政策について、その概念は依然として曖昧であるが、例えば安平政吉「刑事政策概論」によれば、「犯罪の鎮圧防止ということ並びに犯人の処置ということを、主として刑罰手段またはこれに類似した手段乃至これと密接不可分の関係にあるものをもってした場合の問題」、あるいは「犯罪防止をめざす国家または地方自治体の活動」(守山正「ビギナーズ刑事政策」)と定義している。また、最近の刑事政策学では「私人の活動」や「被害者の救済」も視野に入れてきている(藤本哲也「刑事政策概論」)。

 いずれにしても、最終的には犯罪の防止、すなわち社会の平穏を維持することに収斂されてくると考えることができるが、社会の平穏の維持は国家ないし社会の原始的機能で、その手段として刑罰が必要不可欠なものとなっている。

 犯罪を防止するには、刑罰のほかに犯罪者の矯正・改善をはじめとする犯罪者処遇、あるいは犯罪が発生する前の段階で何らかの措置を講じる犯罪予防対策、さらには被害原因を研究する被害者学や被害者の救済などの多くの学派が誕生し、実行されてきた。

 しかしながら、今日に至っても犯罪を根絶する妙薬は発見されていない。近年になって、犯罪の増加とともに考えられてきた犯罪予防の妙薬は環境犯罪学の実践である。この理論はマーカス・フェルソンやロナルド・クラークによって唱えられたものであるが、要するに犯罪者の視点に立って犯行が行われる要素を排除(例えば監視されている環境を作り出す方策、被害額をなくすため自動販売機の現金をこまめに回収する手法等)しようとするものである。

 こうした中で、公訴時効の廃止は刑事政策の古典的な法執行モデルへの回帰であるともれるが、社会の応報感情の高まりやDNA型鑑定の高度化から時効制度が合理的という可能性は少ないと思われる。しかし、その一方で国家刑罰権の強化・肥大化は、人権侵害の危険を大きくする、と考える人たちもいる。また、罪刑法定主義の一つの重要な内容である刑罰法規の不遡及原則にかんがみ、前回の改正では法施行後の犯罪から適用するとしていたのを今回は法施行前の犯罪にも遡って適用している。

  学生の皆さんは、公訴時効の廃止についてどんな感想をもちましたか?

2010年6月24日 (木)

カーボン・リーケージ(炭素の漏れ)とは? ― 武田 史郎准教授

□ はじめに

民主党政権は「CO2 (あるいは,温室効果ガス) を2020年までに90年比25%削減する」という非常に高い削減目標を掲げ,自民党政権よりも積極的に温暖化対策に取り組む姿勢を示しています.しかし,その意欲的な温暖化対策は現時点ではまだ国民の幅広い支持を受けているとは言えないと思います.特に,産業界からは民主党の掲げる温暖化対策に激しく反対する意見も出されています.

□「温暖化対策に反対する理由」

温暖化対策に反対する論拠は多岐に渡りますが,その一つとして,「アメリカ」や「中国」
といった CO2 の大量排出国が積極的に温暖化対策 (CO2の削減) に取り組んでいない状況で日本のみが突出した形で温暖化対策をすることは望ましくないという主張があります.
なぜ日本だけが積極的に温暖化対策をするのが望ましくないのでしょうか?これには「カーボン・リーケージ」という問題が関係してきます.

□「カーボン・リーケージ」

「カーボン・リーケージ」とは,日本だけが積極的にCO2削減に取り組むことで,日本以外の地域では逆にCO2排出量が増加してしまう現象のことを指します.カーボン (carbon) は「炭素」,リーケージ (leakage)は「漏れ」という意味ですから,日本語で「炭素の漏れ」とも呼ばれます.

□ カーボン・リーケージの問題点

地球温暖化の原因が日本の排出するCO2だけならば,日本のみがCO2を削減することで温暖化を防ぐことができます.しかし,温暖化の原因は世界全体でのCO2排出量です.日本でいくらCO2排出量を減らしたとしても,他の地域でCO2排出量が増加してしまうのなら世界全体でのCO2排出量は減少するとは限りません.もし,カーボン・リーケージが強く働くとすると,日本でCO2排出量を減らすことがかえって世界全体での CO2 排出量を増加させることにもつながりかねません.

□ カーボン・リーケージの原因

なぜ日本でCO2排出量を削減することで,海外のCO2排出量が増加してしまうのでしょうか?その理由としては次の2つがあります.
1. 生産活動の海外への移転を通じた効果
2. エネルギー価格の低下を通じた効果

【生産活動の海外への移転を通じた効果】

例えば,日本でCO2排出量の削減をおこなうとします. CO2の排出源は化石燃料 (石油,石炭,ガス) ですので,これは結局化石燃料の利用に制限をかけるということになります.化石燃料の利用に制限をかけることで,エネルギー集約産業 (化石燃料を大量に利用して生産活動をおこなっている産業),例えば鉄鋼産業,化学産業等は生産コストの上昇に直面することになります.この生産コストは価格の上昇につながります.
日本の企業は日本国内,及び海外において外国の企業と激しい競争をしています.そのような状況で,価格を引き上げたとすると,日本のエネルギー集約産業は競争力を失ってしまいます.日本企業の製品は売れなくなり,その代わりに海外の企業の製品が売れるようになります.その結果,海外での生産活動が増加し,海外でのCO2排出量が増加することになります.

【エネルギー価格の低下を通じた効果】

日本でCO2を削減すると日本の化石燃料への需要が減少します.これは需要と供給の関係から化石燃料の国際価格を低下させる効果を持ちます.化石燃料価格が低下すれば,日本以外の国では化石燃料の利用量を増やそうとします (安いものをたくさん利用するほうがいいので).これにより日本以外の国でのCO2排出量が増加することになります.

□カーボン・リーケージの大きさ?

問題なのはカーボン・リーケージの大きさです.カーボン・リーケージが小さい,つまり日本がCO2を削減しても他の地域ではそれほど増加しないというのなら問題ありませんが,カーボン・リーケージが大きいのなら日本のみが積極的にCO2を削減することは望ましくありません.
実際はどうなのでしょうか? これについては多くのシミュレーション分析がおこなわれています.中にはかなり大きいリーケージが生じるという結果を導いているシミュレーションもありますが,多くの研究ではリーケージはそれほど大きくないという結果が出ています.
これはあくまでシミュレーションであって現実にそうなるとは限りません.実際にどうなるかは日本がCO2の排出規制をおこなってみないとわかりませんが,このカーボン・リーケージは温暖化対策を考える際の一つの重要な論点ですので覚えておいてください.

2010年5月27日 (木)

欧州チャンピオンズリーグFINAL ― 山口 重信講師

 サッカーの欧州チャンピオンズリーグ(CL)は22日、決勝を行い、インテル(イタリア)がバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)に2―0で勝利し、45年ぶりの欧州制覇を果たした。インテルは国内リーグ(セリエA)・イタリア杯を制覇し、バイエルンも国内リーグ(ブンデスリーガ)・ドイツ杯を今年度制覇した。共に3冠がかかった大一番であったがインテルがセリエAクラブ史上初の3冠を達成した。

 インテルを率いるモウリーニョ監督は、バイエルンのファンハール監督がバルセロナ(スペイン)を率いた1997年から2000年までアシスタントコーチとして同じベンチに座った。いわゆる「師弟対決」であること。決勝が行われたスペインのマドリードにあるサンティアゴ・ベルナベウスタジアムはリーガ・エスパニョーラに所属するレアル・マドリードの本拠地であり、現在インテルの背番号10スナイデル、バイエルンの背番号10ロッベンが昨シーズンまでプレーしていた場所であり、戦術・勝敗以外にも決勝がこのような対戦になったことに興味深さと人間模様を感じる。

 スナイデル(インテル)、ロッペン(バイエルン)の2人はともにオランダ代表選手。そう来月から始まるワールドカップで日本(SAMURAI BLUE)は予選リーグでオランダと対決するのだ。マスメディアからは日本代表の闘いに対し、連日さまざま報道されているが、結果は後からついてくるもの。日本代表が今まで積み重ねてきたものを信じ応援したい。 「人間万事塞翁が馬」、まったく禍福というのは予測できないものである。

2010年5月20日 (木)

見せたい番組・見せたくない番組・見てもらいたい番組 ― 田島 祥講師

 5月14日に、日本PTA全国協議会が「子どもとメディアに関する意識調査」の結果を発表しました。小学5年生、中学2年生及びその保護者に対して実施されたこの調査では、「子どもに見せたくない番組」の結果がメディアに取り上げられる項目として有名です。上位に入る番組は毎年ほとんど変化はなく、「内容がばかばかしい」「言葉が乱暴である」といった理由から保護者に敬遠されていることがわかります。

 メディアに取り上げられるのは「子どもに見せたくない番組」が多いですが、この調査では「子どもに見せたい番組」についても質問されています。平成21年度は「世界一受けたい授業(小・中学生)」「Qさま!! (小・中学生)」「ダーウィンが来た!(小学生)」「天才!志村どうぶつ園(小学生)」「週間こどもニュース(小学生)」「プロフェッショナル 仕事流儀(中学生)」「JIN-仁-(中学生)」が上位に挙がっていました。「知識が豊富になる、学習の助けになる」「役に立つ」「面白い」「家族だんらんの時間が持てる」等が、保護者から好まれる理由のようです。特に前者2つは、“番組からの学び”を期待しているのだと考えることができます。

 テレビ番組の影響については、一般に悪影響が懸念されることが多いですが、テレビ視聴がもたらす良い影響についても研究が進められています。これまでに分かっている知見として、①全般的なテレビ視聴は、子どもの知能や学力、創造性や想像力を低めることが示唆されているものの、その影響は番組の内容によって異なること、②暴力的な番組の視聴が多いほど、子どもの学力や創造性が低くなること、③教育番組は子どもの認知能力を高める効果があること、などが挙げられます。これらの研究は子どもを対象にしたものであるため、大学生や成人への影響とは異なる可能性があることや、欧米の研究が中心で、日本の番組を対象とした研究は少ないことなどをふまえておく必要がありますが、教育的な番組は、視聴者に良い影響をもたらす可能性があると考えることができます。

 教育的な番組としては、NHKによる教育番組が真っ先に頭に浮かびますが、最近では民放局によるバラエティ番組でも、知的な内容を豊富に含んだ番組が多くみられます。楽しみながら様々な知識を得ることができる番組が多く提供されていることは、“番組からの学び”という保護者の期待に応える上でも、とても良い流れだといえます。

 最後になりますが、民放連が発表している「青少年に見てもらいたい番組」をご存知でしょうか。毎年春と秋の2回、「青少年の知識や理解力を高め、情操を豊かにする番組を各放送事業者は少なくとも週3時間放送する」という民放連の取り組みに基づいて、各放送局が指定した番組の一覧です。上述の「子どもに見せたくない番組」「子どもに見せたい番組」に比べて、ほとんどメディアには取り上げられていませんが、つい先日2010年春の番組が発表されました(民放連のHP参照)。推奨する理由も添えられていますので、保護者の考える「子どもに見せたい番組」と比べてみるのも面白いかもしれません。

2010年5月12日 (水)

アメリカ連邦最高裁判所判事の指名 ― 並河 仁准教授

 オバマ大統領が10日、連邦最高裁判事にSolicitor General(連邦最高裁判所における訴訟などでの政府代理人)であるElena Kaganを指名した。日本では最高裁判事の任命が注目されることは少ないが、アメリカでは、連邦最高裁判事の任命はとても大きな意味を持つ。連邦最高裁判所のあり方が日本とは大きく異なっていることが理由である。

 第一に、連邦最高裁判事は政治的任命職である。日本の最高裁判事も内閣が任命することになっているが(長官は内閣が指名し天皇が任命する)、実際には、最高裁事務総局を中心に法曹関係者によって決定され、時の政治指導者の影響はほとんど受けていないとされる。対して連邦最高裁判事は、大統領が自由に任命することができるため、党派的任命がなされる。大統領の個人的な友人が任命されることすらある。80年代以降は、イデオロギー的立場が大統領に近い人物を任命する傾向が強くなっている。

 第二に、日本の最高裁判事は内閣が任命すればそのまま判事に就任することになるが、アメリカの場合は上院の同意が必要であり、公開の場で審査を受けることになる。そもそもが党派的任命であるため、政治状況や任命された人物の立ち位置次第では、審査の場で過去の言動を掘り返されるなど、政治闘争の場になることもある。形骸化していると言われて久しい日本の国民審査とはかなり趣を異にする。

 第三に、日本では70歳定年制であるが、アメリカの連邦最高裁判事は終身である。党派的任命でありかつ終身職であるため、任命した大統領が最大2期8年で大統領府を去った後も、長く連邦最高裁判事として党派的な影響力を行使することになる。更に、退任の次期を自分で選ぶことが出来るため、自分を任命した党派が大統領職を占めたときに退任することで、後任ポストを同じ党派が占めるように配慮することも珍しくない。しかし、終身であるがゆえに任命者の期待を裏切ることも可能であり、保守的立場を期待されて任命された判事がリベラルな立場にシフトすることも珍しくない。

 第四に、日本の違憲立法審査権は具体的係争に限定され、成立したばかりの法の是非そのものを問うことはできない。いわゆる司法消極主義である。アメリカの司法制度は、上記のような強い政治的=民主的バックボーンを持つために司法積極主義をとっており、政治に与える影響が大きい存在となっている。アメリカのリベラル化を後押ししたウォーレンコート(連邦最高裁は、長官の名称を付けて呼称することが一般的である。ウォーレンコートとはWarren判事が長官を務めた時代の連邦最高裁を指す)など、アメリカ政治をひもといたときに連邦裁判所の活動がキーになっていることは珍しくない。

 このような背景があるため、アメリカでは、連邦最高裁判事の任命は大きな注目を集めることになる。

 さて、今回のElana Kagan氏はオバマ政権では二人目の最高裁判事任命になる。一人目はDavid H. Souter判事の後任でSonia Sotomayor判事である。Souter判事は1990年にブッシュ政権(パパブッシュ)によって任命されたが、保守派の期待に反しリベラル派にシフトした判事である。Sotomayor判事は初のヒスパニック系判事であり、女性であることもあわせ、オバマ政権のリベラルにアピールする姿勢が反映しているといえよう。55歳での就任であり、長く判事職を勤めることが予想される。今回指名されたKagan氏はユダヤ系女性であり、リベラル派として知られている。前任者のJohn Paul Stevens判事はフォード大統領によって1975年に任命され35年の長きにわたって判事を務めた。任命された当初は中立的立場であったが、後年リベラル派にシフトしており、Kagan氏の指名はSotomayor判事同様、リベラル派判事からリベラル派判事への引き継ぎとなる。Kagan氏は50歳であり、Stevens判事同様、長くリベラル派判事として務めることが予想されるだけに、上院での審査の動向が注目される。無論、Stevens判事同様、就任後に立場をシフトさせる可能性がないわけではない。

 ちなみに、Stevens判事の前任者William O. Douglas判事が任命されたのは1939年、なんと第二次世界大戦前であり、こちらも36年の長きにわたり判事を務めている。任命者はF.ルーズベルト大統領。Douglas判事の前任者はLouis D.Brandeis判事であり、この人に至っては第一次世界大戦中の1916年の任命である。

 同じように「最高裁判所」「最高裁判事」といっても、これほどの違いあるのだから、面白いものである。

 ついでに言っておくと、「連邦最高裁」とわざわざ「連邦」を付けているのにもちゃんと理由がある。アメリカでは州ごとに最高裁判所が存在し、州法のみに関することは原則として州の最高裁判所が管轄権を持つことになっている。これもまた日本では考えられないことであると同時に、国の成り立ちの違いがよく分かる話でもある。

2010年5月 6日 (木)

日本語能力試験の改訂について思うこと ― 小池 康講師

 みなさんは「日本語能力試験」というものを知っていますか。おそらく留学生の読者の方なら聞いたことがあると思います。中には、受験したことがあったり、1級や2級の認定を受けた人もいるのではないでしょうか。
 日本語能力試験は、日本語を母語としない人を対象に、公的に日本語能力を測定し、認定することを目的として、1984年より毎年一回実施されてきました(ただし、2009年は1、2級のみ二回実施)。単に日本国内だけではなく、海外の49の国や地域でも実施され、全世界で50万人以上が受験しました(2007年度)。
 試験には1級から4級までの四つのレベルがあり、受験者は自分の必要とするレベルの試験を受けます。各レベルとも「文字・語彙」「聴解」「読解・文法」といった三種類の内容から構成され、総合得点で一定の得点以上ならば、その級(レベル)の日本語能力があると認定されます。

 さて、このように四半世紀にわたって行なわれてきた日本語能力試験ですが、今年2010年より、レベル的にも内容的にも新しい形となって生まれ変わります。
 まずレベル的には、認定される級の数がこれまでの四つから五つになります。新しく設定された級はそれまでの2級と3級の間のレベルに相当するもので、これまでの試験では3級までは比較的簡単に取得できたが、2級になるとなかなか取得できなかったという事情を踏まえたもののようです。3級から2級に上がれず、日本語への学習意欲が減退してしまった人も多かったようですが、今回の改定には、そのような人を減らし、学習意欲を維持させる目的もあると思います。
 内容的な変化としては、実際に「使える」日本語の能力を測ろうとしていることです。これまでは、1級を持っている外国人でも日本人とのコミュニケーションに難点がある人もいました。つまり、日本語の知識はあるけれども、場面や状況の違いに応じた適切な表現の選択ができない人が多かったということです。今回の改定によって、日本語の知識と共に日本語を適切に使える力(「運用能力」と言います)の両方をレベルアップさせるような日本語教育がより進んでいくものと思われます。

 さて、ここでふと気になったことがあります。確かに日本語を学ぶ外国人に日本語の知識とその適切な使い方を教えることはとても重要です。では、逆に今の日本人にどれだけ日本語の知識と適切な運用能力があるでしょうか。みなさんは、どんな相手に対しても相手に配慮した日本語を使える自信はありますか。また、場面や状況に応じて日本語を使い分ける自信はありますか。日本で生まれ、日本で育ち、日常生活で日本語を使っているからと言って、日本語が適切に使えているかと改めて聞かれるといささか自信がなくなるのではないでしょうか。
 このたびの日本語能力試験の改定は、我々にとっても日本人が見失いかけているものを再確認・再認識するきっかけにもなりうるものだと思います。ですから、みなさん、この日本語能力試験の試験問題を見る機会があったら、ぜひやってみて下さい。そして、自分の日本語がどのくらいのレベルなのかを確認してみて下さい。
 意外と、外国人に近い日本人になってしまうかもしれませんね...。

2010年4月28日 (水)

駅弁と発表 ―東 倫広准教授

 プレゼンテーションZenの作者であるガー・レイノルズさんはある日東京での仕事を終えて東海道新幹線で大阪へ行く途中、隣席の日本人ビジネスマンの発表用スライドを眺めて駅弁を食べながら心の中に次の疑問を感じた:「目の前にある日本の弁当はすばらしく効率的で、献立は十分練られており、無駄なものは一切ない。それに比べて、通路越しに見えるPowerPointのスライドは、まとまりがなく、とても分かりやすいとはいえない。なぜ日本の駅で売られているシンプルな駅弁の精神を、ビジネスに関するプレゼンテーションに取り入れることができないのだろうか?」

 確かに今まで日本で聞いた発表はギッシリ内容を詰め込んだスライドを聞き手の目を合わせずに読み上げていくことが多かった。外国人の目線から見ればそれは「発表する」より「示す」という意味が強いであろう。なぜ漫才や笑い芸人のパフォーマンスは簡単で分かりやすくて誰でも心から笑えるが、発表だけは苦手なのか。

 物事をはっきり言わなくても日本人同士の間に理解できるので、発表という行為はただの儀式に過ぎないかもしれない。そしてPowerPointは発表用の道具ではなくデータを示すためのノートパットである。発表の必要性を感じない日本人は自然に発表内容や順番を聞きやすいように工夫しようとしないのであろう。ビジネスの世界では花より団子、華やかな発表儀式よりサービスや製品の中身がよほど重要だと考えられているため、発表は常に重要視されていない。

 もう一つ考えられる理由は、場を大事にする日本人は例え発表者のプレゼンはまずくても我慢して最後まで聞く。なぜかというと、一生懸命発表資料を用意してプレゼンしてくれる人に対して不満を表すことは、発表テーマを理解しようとしている「皆の場」を邪魔することになる。同じように電車中の迷惑行為を誰も止めないのは、同じ電車にいる乗客の場を破壊したくないからである。そのために発表者は永遠に自分のプレゼンがまずいという実感がなく改善しようとしないのであろう。

 「世界一分かりやすい授業」という番組をよく見る。短い時間の中に講師は番組が用意したセリフを読み上げたり、授業に関連する実験をやったり、司会者の冗談を混ぜたりして、確かに分かりやすかった。しかし今まで視聴した「授業」はどのぐらい印象に残ったのかを自分に問った。分かりやすいだから忘れやすいなのかもしれない。駅弁や漫才などその場で喜びを感じた後さっぱり忘れることが大丈夫のであれば、発表を短い時間に理解できるように工夫する必要がある。しかし教育現場で教員のプレゼンである講義をわざと少し聞きにくくして、学生に知識の塊を組立ててもらうことは教育効果を向上させられるかもしれない。

2010年1月20日 (水)

事業仕分けとスポーツ・大学体育

天野勝弘 准教授

 はじめに:前半部分は飛ばしても構いません。後半部分を述べる理由作り部分ですので。その意味で、タイトルもややこじつけです。

 昨年行われた政府の事業仕分けで、スポーツ関連について話題を呼んだのは、仕分け人から「五輪は参加することに意義があるのではないか」「ボブスレーなどマイナーな冬季競技を支援する必要があるのか」などというマイナースポーツ切り捨て論が出たことである。これらを理由として、結局32億円あまりの日本オリンピック委員会への補助金が削減された。これに対して、マイナースポーツ関係者からは一斉に批判の声が上がった。とりわけ、北京五輪のフェンシング競技で銀メダルを獲得した太田雄貴は、「強化と普及」、「マイナースポーツの現状」という観点から異論を唱えた。

 スポーツの経済性は、近代化の過程の中で、スポーツの有する勝・敗という2次元コードが商業化され、それをとりまくスポーツ経済社会ができあがったことを考えれば、なりたつ議論である(競技スポーツ)。かつて、女子プロゴルファーの上田桃子が、テレビ番組で「先のないスポーツ」発言をして物議を醸したことがある。彼女がゴルフを始めた動機は、ゴルフでお金を稼ぐことにあった(障害のある姉がいるためと説明)。その意味で、プロとよべる世界がない、あるいはあったとしても十分でない「先のないスポーツ」を、友達が一生懸命していることがわからなかったというのである。当然のことながら、名指しされたスポーツ団体を始め様々なところから批判が寄せられた。その後上田は「私にとっての先のないスポーツ」という意味であると釈明するとともに、彼女の発言で傷ついた方々にお詫びするとの謝罪コメントを発表している。

しかしながら、そもそもスポーツは、本来的意味では遊技であり(レクレーショナル・スポーツ)、経済的効率性とはなじまないものである。音楽や他の芸術と同じように、生きていきためには不可欠かと問われれば、NOと言わざるを得ない。大学で行われているクラブ活動も、社会の注目を集めている一部のスポーツを除けば、レクレーショナル・スポーツである。大学時代にかなりの成績を残したとしても、卒業後にその競技で食べていかれる人はほんの一握りである。生きることすら不安な経済情勢にあっては、そうした遊びは切り捨てられる方向にある。そこで、そんなことを大学時代に真剣にやる意味があるのかという意見は多い。そもそも、教育(大学)も経済性とは縁遠いところにあるが、今日では大学にも求められている。これまで、あまりにも効率と言うことを考えてこなかった“つけ”が回ってきているということは認めるが、事業仕分けに代表されるような、経済効率性一辺倒の考えはとても容認でるものではない。

 ひとりの女子学生が私のところに質問にきた。その授業では、期末にレポートを提出させている。課題は「自分のためのトレーニング・メニューを作る」というものである。まず、トレーニングの目的をはっきりさせ、その目的実現のための具体的内容と根拠を示さなければならない。

彼女が作ろうとしているメニューは(水)泳力を養うもので、フィン(足ヒレ)をつけて300mの距離を目標タイム以内で泳ぐためのものであった。現在、彼女は、後半バテてしまうことが原因で、そのタイムをクリアできないという。では、なぜそのような泳力が必要なのか、それはスキューバ・ダイバーの初級の資格を取得するためである。ではなぜその資格なのか。

彼女は小さい頃から(たぶん小学生)、両親に連れられて、毎年沖縄の離島に遊びに行っていたそうだ。そこで目にし、知ったことは、きれいなサンゴ礁が年々失われていく光景であった。今、彼女はサンゴ礁を守ろうと考えている。そうした仕事(まだ具体的ではないようだが)に就きたいと考えている。

サンゴ礁消滅の危機は、人間の出す生活排水だったり、開発による海への土砂の流入だったりする。人間が生きていく、生活していく上では仕方ない部分もある。彼女もこのことを認めている。しかし、両者の折り合いをつける線や方法が必ずあると信じている。また、それを見つけたいと願っている。

彼女がその仕事に就くためには、サンゴを直接調査できなければならない(と彼女は考えている)。そこで、先のスキューバ・ダイバー初級の資格を今(1年生で)とりたいのだという。

人間とサンゴとの折り合いをつけるということは、経済的効率性という視点も含まれるだろう。しかし、彼女が抱いた夢は、そんなところからは生まれていない。

彼女は、子どもの頃に出会ったかけがえのないものを守りたいという夢を抱いて、その実現に向けて、今できることをしている。

事業仕分けや経済的効率性からは決して生まれない、このような行動があるということを、いつまでも忘れないでいたい。