雑感
照山顕人 准教授
昨年末一書を刊行した際、内外の文献を渉猟することに難儀しましたが、今の世の中パソコンのおかげで、少なくとも文献の収集だけでも、僕の学生時代と比べればはるかに、楽になりました。
昨今のコンピューターの発達によって、僕のような機械音痴にも簡単な操作で捜し求めている文献がどこに存在するか、たちどころにわかります。どこかの図書館で所蔵している場合には相互貸借のシステムで、わざわざ遠方の図書館に行かなくても、郵便や宅配によって本学の図書館に届きます。1ページや2ページ程度の資料が必要であればファックスでその部分だけ送ってもらうことができます。古書店のサイトを使えば日本のみならず世界中の古書店の情報がわかり、注文を出すことができます。さらにグーグル・ブックスのサイトを使えば――著作権が切れている文献と思いますが――本1冊が丸々閲覧可能で、おまけにプリントアウトをすることもできるのです。大体僕が探す本といえば、1700-1900年代初期の古い本ですので、このサイトでほとんどが間に合ってしまい、非常に助かりました。
でも今から30年前の僕が大学生だったころを思い起こすと、隔世の感を禁じえません。ある本を必要として、それが在学している図書館になければ、よその図書館にそれを求めるわけです。これは今と同じです。しかしパソコンはありませんから、機械がどこの図書館にあるか調べてくれることはしません。すべて人力なのです。当時図書館には、日本の大学図書館を横断検索できる蔵書目録(書名は失念しました。現在のNACSIS Webcatの冊子版です。)があり、それによって捜し求める本がどの大学図書館で所有しているかがわかりました。非常に大部なものだったので、調べるのも一苦労でした。かつてイギリスの古い文献が必要となりその目録で探したところ、関東圏では図書館情報大学(現、筑波大学)にしかないことが分かりました。禁帯でしたので、現地まで赴かなければならず、都心から筑波まで電車とバスを乗り継いで往復しました。帰りは夜になってしまいましたが、バスが1時間に1本程度しか運行されておらず、あぜ道の脇のバス停で真っ暗な中40分くらい待った記憶があります。捜していた本も見つかり、コピーも取れたという満足感で帰ってきました。今から思うと2時間も3時間もかけて、わずか数冊の本を探しによく行ったと思います。若かったから学問に対する情熱もあったのでしょうが、当時としてはそのほかの選択肢がなかったわけですから、仕方がなかったのです。みんなが同じ方法で研究に勤しんでいました。
海外の古書店に文献を求めるのも大変でした。僕は自分が探している本をリストアップして、スコットランド中の古本屋に郵送していました。何日か後に古書店から在庫の有無が郵便で返事が来ます。したがって1冊の本を探し出して、手に入れるまでに数ヶ月の期間を要しました。これだけの期間がかかるわけですから、入手したときには注文したことすら忘れているということも何回かありました。また海外の多くの古書店から定期的に古書のカタログが届くのですが、自分のほしい本がたまたま掲載されていると、他人よりも早く注文を出さないと、とられてしまいますから、しょっちゅう国際電報を打っていました。これだと24時間OKですから、電話より好都合でした。したがってファックスを据え付けた時は本当に便利だなと思いました。今では古書店もカタログなどは廃止して、独自のHPを立ち上げ、ネット上で在庫目録を公開しています。
現地の図書館にもずいぶんと手紙で問い合わせをしました。先年エディンバラ市立中央図書館を訪れた時、僕がその昔送った手紙の束が残っていました。図書館ではどのような問い合わせがあり、それに対してどのような回答をしたか、記録として残しておくのだそうです。
今、論文を書く時などにはさまざまな文献をパソコンで調べますが、そんなとき学生時代のことが懐かしく思い出されます。しかしよくよく考えれば、僕の学生時代よりももっと昔の人はもっと苦労をして本を読んでいたはずなのです。
数週間前に図書館で岡本綺堂の随筆集を見つけました。綺堂(1872-1939)は明治中期に2代目市川左団次と組んで新歌舞伎の劇作家として活躍した人です。また小説家としても名を馳せた人でした。代表作は戯曲で「修禅寺物語」、小説では「半七捕物帳」があります。
その随筆集の中に「読書雑感」という筆海があり、綺堂が最も多くの本を読んだという明治20年代の読書事情が書かれています。当時の人々は、現代のわれわれに想像もつかないような苦労をして本を読んだ逸話が紹介されています。当時の読書事情を知るよすがとして、極めて興味深いので皆さんにご披露します。
それに付けても、わたしたちの若い時代に比べると、当世の若い人たちは確に恵まれていると思う。わたしは明治五年の生れで、十七、八歳即ち明治二十一、二年頃から、三十歳前後即ち明治三十四、五年頃までが、最も多くの書を読んだ時代であったが、その頃には勿論廉価版などというものはない。第一に古書の翻刻が甚だ少い。
したがって、古書を読もうとするには江戸時代の原本を尋ねなければならない。その原本は少い上に、価も廉(やす)くない。わたしは神田の三久(三河屋久兵衛)、という古本屋へしばしばひやかしに行ったが、貧乏書生の悲しさ、読みたい本を見付けても容易に買うことが出来ないのであった。金さえあれば、おれも学者になれるのだと思ったが、それがどうにもならなかった。
わたしにかぎらず、原本は容易に獲られず、その価もまた廉くない関係から、その時代には書物の借覧ということが行われた。蔵書家に就てその蔵書を借り出して来るのである。ところが、蔵書家には門外不出を標榜している人が多く、自宅へ来て読むというならば読ませて遣(や)るが、貸出しは一切断るというのである。そうなると、その家を訪問して読ませてもらうのほかはない。
日曜日のほかに余暇のないわたしは、それからそれへと紹介を求めて諸家を訪問することになったが、それが随分難儀な仕事であった。由来、蔵書家というような人たちは、東京のまん中にあまり多く住んでいない。大抵は場末の不便なところに住んでいる。電車の便などのない時代に、本郷小石川や本所深川辺まで尋ねて行くことになると、その往復だけでも相当の時間を費してしまうので、肝腎の読書の時間が案外に少いことになるには頗(すこぶる)る困った。
なにしろ馴染(なじみ)の浅い家へ行って、悠々と坐り込んで書物を読んでいるのは心苦しいことである。蔵書家といっても、広い家に住んでいるとは限らないから、時には玄関の二畳ぐらいの処に坐って読まされる。時にはまた、立派な座敷へ通されて恐縮することもある。腰弁当で出かけても、碌々(ろくろく)に茶も飲ませてくれない家がある。そうかと思うと、茶や菓子を出して、おまけに鰻飯などを喰わせてくれる家がある。その待遇は千差万別で、冷遇はいささか不平であるが、優待もあまりに気の毒でたびたび出かけるのを遠慮するようにもなる。冷遇も困るが、優待も困る。そこの加減がどうもむずかしいのであった。
そのあいだには、上野の図書館へも通ったが、やはり特別の書物を読もうとすると、蔵書家をたずねる必要が生ずるので、わたしは前にいうような冷遇と優待を受けながら、根よく方々をたずね廻った。ただ読んでいるばかりでは済まない。時には抜き書きをすることもある。万年筆などのない時代であるから、矢立(やたて)と罫紙を持参で出かける。そうした思い出のある抜き書き類も、先年の震災でみな灰となってしまった。(千葉俊二編『岡本綺堂随筆集』岩波書店、2007.pp. 225-227。初出は1933年)
軽妙な筆致で綺堂は書いていますが、ご当人なかなかの辛酸を嘗められたことは想像に難くありません。綺堂は「金さえあれば、おれも学者になれるのだと思ったが、それがどうにもならなかった。」と書いています。当時は本ひとつ読むのも大きなお金が必要で、もちろん時間も必要だったことがうかがえます。
綺堂が、今の時代にパソコンの前に座り、東西古今の書籍をいながらにして閲覧し、ワープロという最新の矢立を使っている姿を想像するのは楽しいものがあります。
今の世の中は明治時代よりもはるかに研究環境がよくなったわけで、その分研究が進展したことはいうまでもありませんが、わが身を振り返ってみると、必ずしもそうではありません。どうして、僕の身についたサボリ癖というのは、そこから脱却するのが難しいようです。便利な世の中になると、人は往々にして「安直」に走り「切磋琢磨」ということを忘れてしまうものなのでしょうか、もちろんこれは僕自身[僕だけ]に対する警醒の言葉ですが。
岡本綺堂の随筆を目にし、ついつい自分の学生時代のことを思い出してしまいました。
