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2010-07-07

1168年前の「犬矢」 ― 磐下 徹講師

 今回は1168年前の7月7日(旧暦)のニュース解説をします。

 『続日本後紀』承和9年(842)7月7日条には次のようにあります。
 

「夜中、犬矢於御在所版位之上。(夜中、犬、御在所の版位の上に矢す。)」

 「御在所」とは当時の仁明天皇が居住していた御殿である清涼殿のこと。「版位」とは、その御殿の前庭で儀式などが行われる際、参加した貴族や役人たちの立ち位置を示すために地面に置かれた目印のことです。
 

 では「矢」とは何でしょうか?「矢」といっても「弓矢」の「矢」ではありません。
 

 この「矢」は「糞」を意味しています。ですから「犬矢」とは「犬の糞」のことです。したがってこの日の記事は「夜中に、犬が天皇の居住する清涼殿の庭で糞をした」という意味になります。今から1168年前の7月7日は、「犬の糞」により歴史上に記録されたということになります。
 
 ところでこの『続日本後紀』とは、天長10年(833)~嘉祥3年(850)までの日本の歴史をまとめた書物で、国家の命令で編纂されたものです(貞観11年(869)成立)。このような歴史書は奈良・平安時代を通じて6つ編纂され、「六国史」と総称されています。『続日本後紀』はその第4番目に位置するものです。
 

 ですから『続日本後紀』のこの記事は、国家の公的記録ということになります。「犬の糞」が公的記録に残されるということは、現在の私たちからすれば違和感のあるところです。しかし、何らかの理由があったからこそ、この「犬の糞」事件は記録に残されたのです。いったいどのような理由があったのでしょうか?

 平安時代の人々にとって、「犬矢」は「怪異」と認識され、良くないことの起こる前兆だと考えられました。例えば承平2年(932)7月5日には、「紫宸殿(重要な政務や儀式が執り行われた施設)の版位に「犬矢」が残されていた。そこで陰陽寮に占いをさせたところ、「兵革」(戦乱)に注意すべきであるという結果が出た」と記録されています(『小右記』長元3年9月16日条所引)。このように「犬矢」が残されていれば、それは良くないことが起こる前兆(この場合は戦乱)であり、それが何の前兆なのかを特定し、為政者たちは対策を講じなければならないのです(ちなみにこの3年後に、関東では平将門の乱が、西日本では藤原純友の乱が起こっています)。
 

 「犬矢」の示す前兆を特定する際には、安倍晴明で一躍有名となった陰陽師たちが活躍しました。先に出てきた陰陽寮は、陰陽頭を筆頭に陰陽師など陰陽道の専門家から構成される中央官庁です。彼ら陰陽道の専門家たち(彼らはいわば官僚です)によって占いが行われ、「犬矢」などの「怪異」が意味するところが特定されたのです。
したがって今風に表現すれば、「犬の糞」をきっかけに中央官庁に調査が命じられ、その「犬の糞」に関する調査結果をもとに、閣僚たちが閣議の場で対策を議論した、ということになるでしょうか。
 
 ですから、承和9年の場合も、天皇の御殿(清涼殿)という国家の中枢空間に残されていた「犬の糞」の持つ意味が、真剣に検討されたと考えられます。
 今の私たちからすれば、馬鹿げたことに思えます。しかし、当時の人々からすれば、とても重大な事件だったのです。だからこそ『続日本後紀』という国家の公的記録にも、この承和9年の「犬の糞」事件は記録されたと考えることができます。

 ところが、この「犬の糞」事件は、そう単純でもないようです。

 「犬矢」のような「怪異」は、良くないことの前兆だと考えられました。そのような視点で『続日本後紀』の続きを読んでいくと、注目される記事に行き当たります。それは承和9年7月17日条、「犬の糞」事件から10日後の記事です。

 この日、伴健岑と橘逸勢の謀反が発覚します。彼らが当時皇太子であった恒貞親王とともに東国(美濃国(現在の岐阜県)以東の地域)に入り、現朝廷に対し反乱を起こそうとしているというのです。この二人を中心とした関係者たちは身柄を拘束され、平安京には厳戒態勢が敷かれました。さらには、京に至る主要交通路も封鎖されました。これは事件関係者の逃亡を防ぐためです。

 この事件の結果、皇太子恒貞親王は廃され、かわって道康親王が皇太子となります。のちの文徳天皇です。これが「承和の変」と呼ばれる平安時代を代表する政治事件です。
この変の評価については意見の分かれるところですが、結果的に皇太子となった道康親王は、当時政界で勢力を伸ばしつつあった藤原良房の妹の子で、この良房がいわゆる摂関政治を創始し、藤原氏全盛期への道を切り開いた人であることを考えれば、この事件が後の歴史に大きな影響を与えていることは間違いないでしょう。
「犬の糞」事件の10日後に、このような大事件が起こっているのです。

 もちろん、本当に7月7日に「犬矢」が清涼殿の庭に残されており、それが見事に変を予兆していたと単純に考えることもできるでしょう。確かに「犬矢」の「怪異」は、現在の私たちには想像できないほど平安時代の人々に深刻に受け止められていました。とはいえ承和の変の10日前に都合よく「犬矢」の「怪異」記事が載せられているのには何らかの作為が感じられます。

 そこで注目されるのが『続日本後紀』の編者の一人である春澄善縄という人です。

 善縄は陰陽道に高い関心を寄せた人でした。そして陰陽道は、「犬矢」など「怪異」と深くかかわる思想です。すると、『続日本後紀』の編纂に際し、承和の変の10日前に慎重にも「犬矢」の「怪異」の記事を配したのは、誰あろう春澄善縄だったのではないでしょうか。
「犬の糞」事件が全くのフィクションだったとはいいきれないでしょう。しかし清涼殿の庭に「犬矢」が残されていたという「怪異」が重視され、『続日本後紀』の記事として残された背景には、その10日後に起こった承和の変を前提とした善縄の意向が働いていたのではないでしょうか。

 しかもこの善縄は、承和の変で廃された皇太子恒貞親王の家庭教師(東宮学士)を務めていたため、事件後に処罰を受けています。善縄が「犬の糞」に込めた思いは、かなり複雑なものだったのではないでしょうか。

 今から1168年前の7月7日は、平安宮の清涼殿で、政治臭をプンプン漂わせた「犬矢」が発見された日だったのです。

 犬の糞にも歴史あり。