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2010年7月

2010年7月27日 (火)

サッカーと地雷 ― 三谷 純子准教授

 夜中のサッカーワールドカップのテレビ観戦で、本学でも寝不足気味の学生が多かった7月が終わろうとしています。

 サッカーをはじめとするスポーツは子どもの権利と深いつながりがあります。楽しみながら体を鍛え、戦略的な思考、チームワーク、自律心、自信、リーダーシップ等を向上させることは、子どもの育つ権利の大切な一部です。貧困や差別などの理由から、麻薬や犯罪組織に関わりがちな、社会の周辺部に追いやられているような子ども達のためにもスポーツは重要な役割を果たし、子どもの守られる権利や参加する権利を促進することができます。

 けれども、世界には思いっきりサッカーをしたくてもできない子どもがたくさんいます。

 毎日家族のために何時間もかかって遠くの川や池や井戸へ水汲みに行かなければならない子。家族を経済的に支えるために働いている子。限られた種類の運動をすることしか許されない社会の女の子。そして、更に、ボールを追いかけるだけで、命を落としたり、体に障害を負う危険に身をさらす子もいます。地雷のせいです。

 20年以上の内戦が続いていたスリランカ東北部の小学校を、写真撮影の仕事で訪問した時のことです。村から逃げてきた国内避難民のタミル人の子ども達が通う学校でした。休み時間になると、校舎の裏の小さな空き地に子ども達が飛び出していき、サッカーが始まります。狭すぎて試合はできませんが、ドリブルの技を得意そうに披露してくれます。でも、その小さな校庭は、鉄条網で囲われ、鉄条網のすぐ外の藪には赤いマークがついた立て札があちこちに何本も建てられています。立て札の下には地雷が埋まっているのです。

 アフガニスタンでは、村のモスクで始められた臨時の学校の取材の際、ボールやゴールネット、チームごとの色違いのベストが詰まったユニセフの「サッカーの箱」と鉛筆やノート、定規などが入った「学校の箱」を持って行きました。途中、作業中の地雷除去班を見たので、心配になって、先生に聞いてみると、「畑や藪の中にまだまだ地雷はあるが場所が分からない。」ということでした。ソビエト軍や、タリバンや、複数の軍閥が入れ替わり立ち替わり占拠した地域では、どこに地雷を埋めたか知っている人は誰もいません。私たちも、村人が使っている道を外れないように注意して歩きました。

 地雷で命を落としたり、手足を失う犠牲者の7割から8割は、軍人ではなく、民間人です。多くの子どもたちも含まれます。子どもは珍しいものを見るとつい触ってしまいがちですが、地雷の中には、小さい蝶のような形をしているものもあるのです。

 地雷の被害にあって生き残った子どもは成長に合わせて義足を調節しなければなりません。けれども、貧しい家庭には、治療費や通院のための交通費、子どもの世話のために失う収入等の経済的負担が重くのしかかります。カンボジアで会った10歳くらいの男の子は、義足もなく、空き缶を工夫して膝にはめて移動し、皮膚が擦れて血が滲んでいました。「学校には行けない。」と言っていました。あの子は、もう大人になっているはずです。

 地雷は安価に製造できます。けれども、その撤去のための設備や訓練には多額のお金と時間が必要です。時には命も奪われます。クロアチアのUNHCRの現地スタッフは、ある日突然、夫を亡くしました。その頃、クロアチアは旧ユーゴスラビアから既に独立し、ボスニアから難民は押し寄せてきていましたが、とりあえず、クロアチアにいるクロアチア人は、ほぼ安全でした。けれども地雷は地面の中で生き続け、除去にあたった夫は事故に巻き込まれたのです。彼女は、ぶるぶる震えながら、「私がランチをしている間に、夫は死んでしまったの。」と何度も繰り返していました。

 無差別に人を殺傷する地雷問題に対し、まず民間の非営利組織(NGO)が声を上げ、各国政府や国連も賛同し、1999年に、通称オタワ条約と呼ばれる対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約が発効しました。日本も批准しています。この10年間で締約国は156になりました。残念ながら、未締約国には主要な軍事大国が含まれています。まだ製造を続けている国々もあります。それでも、少なくとも輸出禁止の処置を始めた国々もあり、また、地雷の除去のために、NGOや国連、各国の支援機関等による国際的な協力も進んでいます。日本の機械メーカーや日本政府も、地雷除去には積極的な貢献をしてきました。

 そうした世界各地での多くの人々の努力にもかかわらず、今日も世界のどこかで、誰かが地雷を埋め、誰かが地雷のせいで涙を流しています。そして、そんな国々の子ども達の多くも、本学の学生の皆さんと同じように、サッカーが大好きなのです。

2010年7月 7日 (水)

1168年前の「犬矢」 ― 磐下 徹講師

 今回は1168年前の7月7日(旧暦)のニュース解説をします。

 『続日本後紀』承和9年(842)7月7日条には次のようにあります。
 

「夜中、犬矢於御在所版位之上。(夜中、犬、御在所の版位の上に矢す。)」

 「御在所」とは当時の仁明天皇が居住していた御殿である清涼殿のこと。「版位」とは、その御殿の前庭で儀式などが行われる際、参加した貴族や役人たちの立ち位置を示すために地面に置かれた目印のことです。
 

 では「矢」とは何でしょうか?「矢」といっても「弓矢」の「矢」ではありません。
 

 この「矢」は「糞」を意味しています。ですから「犬矢」とは「犬の糞」のことです。したがってこの日の記事は「夜中に、犬が天皇の居住する清涼殿の庭で糞をした」という意味になります。今から1168年前の7月7日は、「犬の糞」により歴史上に記録されたということになります。
 
 ところでこの『続日本後紀』とは、天長10年(833)~嘉祥3年(850)までの日本の歴史をまとめた書物で、国家の命令で編纂されたものです(貞観11年(869)成立)。このような歴史書は奈良・平安時代を通じて6つ編纂され、「六国史」と総称されています。『続日本後紀』はその第4番目に位置するものです。
 

 ですから『続日本後紀』のこの記事は、国家の公的記録ということになります。「犬の糞」が公的記録に残されるということは、現在の私たちからすれば違和感のあるところです。しかし、何らかの理由があったからこそ、この「犬の糞」事件は記録に残されたのです。いったいどのような理由があったのでしょうか?

 平安時代の人々にとって、「犬矢」は「怪異」と認識され、良くないことの起こる前兆だと考えられました。例えば承平2年(932)7月5日には、「紫宸殿(重要な政務や儀式が執り行われた施設)の版位に「犬矢」が残されていた。そこで陰陽寮に占いをさせたところ、「兵革」(戦乱)に注意すべきであるという結果が出た」と記録されています(『小右記』長元3年9月16日条所引)。このように「犬矢」が残されていれば、それは良くないことが起こる前兆(この場合は戦乱)であり、それが何の前兆なのかを特定し、為政者たちは対策を講じなければならないのです(ちなみにこの3年後に、関東では平将門の乱が、西日本では藤原純友の乱が起こっています)。
 

 「犬矢」の示す前兆を特定する際には、安倍晴明で一躍有名となった陰陽師たちが活躍しました。先に出てきた陰陽寮は、陰陽頭を筆頭に陰陽師など陰陽道の専門家から構成される中央官庁です。彼ら陰陽道の専門家たち(彼らはいわば官僚です)によって占いが行われ、「犬矢」などの「怪異」が意味するところが特定されたのです。
したがって今風に表現すれば、「犬の糞」をきっかけに中央官庁に調査が命じられ、その「犬の糞」に関する調査結果をもとに、閣僚たちが閣議の場で対策を議論した、ということになるでしょうか。
 
 ですから、承和9年の場合も、天皇の御殿(清涼殿)という国家の中枢空間に残されていた「犬の糞」の持つ意味が、真剣に検討されたと考えられます。
 今の私たちからすれば、馬鹿げたことに思えます。しかし、当時の人々からすれば、とても重大な事件だったのです。だからこそ『続日本後紀』という国家の公的記録にも、この承和9年の「犬の糞」事件は記録されたと考えることができます。

 ところが、この「犬の糞」事件は、そう単純でもないようです。

 「犬矢」のような「怪異」は、良くないことの前兆だと考えられました。そのような視点で『続日本後紀』の続きを読んでいくと、注目される記事に行き当たります。それは承和9年7月17日条、「犬の糞」事件から10日後の記事です。

 この日、伴健岑と橘逸勢の謀反が発覚します。彼らが当時皇太子であった恒貞親王とともに東国(美濃国(現在の岐阜県)以東の地域)に入り、現朝廷に対し反乱を起こそうとしているというのです。この二人を中心とした関係者たちは身柄を拘束され、平安京には厳戒態勢が敷かれました。さらには、京に至る主要交通路も封鎖されました。これは事件関係者の逃亡を防ぐためです。

 この事件の結果、皇太子恒貞親王は廃され、かわって道康親王が皇太子となります。のちの文徳天皇です。これが「承和の変」と呼ばれる平安時代を代表する政治事件です。
この変の評価については意見の分かれるところですが、結果的に皇太子となった道康親王は、当時政界で勢力を伸ばしつつあった藤原良房の妹の子で、この良房がいわゆる摂関政治を創始し、藤原氏全盛期への道を切り開いた人であることを考えれば、この事件が後の歴史に大きな影響を与えていることは間違いないでしょう。
「犬の糞」事件の10日後に、このような大事件が起こっているのです。

 もちろん、本当に7月7日に「犬矢」が清涼殿の庭に残されており、それが見事に変を予兆していたと単純に考えることもできるでしょう。確かに「犬矢」の「怪異」は、現在の私たちには想像できないほど平安時代の人々に深刻に受け止められていました。とはいえ承和の変の10日前に都合よく「犬矢」の「怪異」記事が載せられているのには何らかの作為が感じられます。

 そこで注目されるのが『続日本後紀』の編者の一人である春澄善縄という人です。

 善縄は陰陽道に高い関心を寄せた人でした。そして陰陽道は、「犬矢」など「怪異」と深くかかわる思想です。すると、『続日本後紀』の編纂に際し、承和の変の10日前に慎重にも「犬矢」の「怪異」の記事を配したのは、誰あろう春澄善縄だったのではないでしょうか。
「犬の糞」事件が全くのフィクションだったとはいいきれないでしょう。しかし清涼殿の庭に「犬矢」が残されていたという「怪異」が重視され、『続日本後紀』の記事として残された背景には、その10日後に起こった承和の変を前提とした善縄の意向が働いていたのではないでしょうか。

 しかもこの善縄は、承和の変で廃された皇太子恒貞親王の家庭教師(東宮学士)を務めていたため、事件後に処罰を受けています。善縄が「犬の糞」に込めた思いは、かなり複雑なものだったのではないでしょうか。

 今から1168年前の7月7日は、平安宮の清涼殿で、政治臭をプンプン漂わせた「犬矢」が発見された日だったのです。

 犬の糞にも歴史あり。