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2014-01-24

「蛍の光」あれこれ - 照山 顕人 准教授

 年が明けて3週間。昨年大晦日に催されたNHK「紅白歌合戦」はまだ記憶に新しいと思います。紅白歌合戦は1951年にラジオ放送で始まり、第3回目までは正月の特別番組となっていました。第4回目以降からは12月31日に放送されるようになり、またこの回からラジオに加えてテレビ放送もされるようになりました。
 このフィナーレでは一部の回を除き「蛍の光」を出演者全員で大合唱するのが恒例となっています。おそらく「去りゆく年」を惜しむという気持ちで歌われているものと思われます。かつてはこの合唱の指揮者といえば藤山一郎でした。
 「蛍の光」の初出は明治14年発行の『小学唱歌集 初編』でした。それに収められている唱歌は明治時代の国文学者が寄ってたかって歌詞を作り上げたものです。彼らには音楽的素養という点で欠けるところがあり、日本語の持つアクセント(日本語の場合アクセントは音の高低によるものです)やイントネーションといった音楽性が作詞にほとんど考慮されなかったのです。その結果妙な歌が出来上がってしまいました。「蛍の光」もその餌食になったのです。
 「蛍の光」の歌いだしの「ほたるのひかり まどのゆき」は「た」にアクセントがありますが、語法上は「ほ」にアクセントがあるのです。日本語ではアクセントの位置が違っても意味が分からなくなるという深刻な問題はあまり生じませんが、本来は語法上のアクセントと音楽上のアクセントは一致させるべきでした。しかし今の流行歌は語法上のアクセントを無視したものが多いのです。ちなみに昔の流行歌で恐縮ですが、チューリップの「心の旅」のアクセントはでたらめで、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」は見事に両アクセントが一致しているそうです。英語、ドイツ語のような欧米諸国の歌謡の場合、両アクセントがずれているような歌は基本的に存在しないようです。
 藤山一郎は本来のアクセントとは異なる音の高低を嫌ったため、紅白歌合戦の「蛍の光」では出だしを歌わなかったという伝説的な話があります。流行歌手といっても東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部)を首席で卒業した藤山にとっては許しがたいものだったに違いありません。
 『小学唱歌集』は文部省音楽取調掛(掛長、伊沢修二)が編纂した音楽の教科書ですが、収められた多くの歌は欧米の歌謡から選ばれて、原歌詞の内容とは異なる独自の歌詞が付けられたのです。この「蛍の光」もルーツは欧米です。スコットランドの詩人ロバート・バーンズ(1759-96)によって作られた「遥かな遠い昔」(‘Auld Lang Syne’)というソングを元にして、国文学者稲垣千頴が作詞しました。『小学唱歌集』には出典・原曲名等がいっさい付けられなかったので、「蛍の光」は日本戸籍の歌として多くの人々に認識されてしまいました。
 「蛍の光」が日本人にとってなじみのある歌になったのは卒業式で歌われるようになってからです。日本では「蛍の光」と卒業式とは切っても切れない関係ですが、どうして卒業式とワンセットになったのでしょうか。音楽取調掛長の伊沢修二は「蛍の光」について次のように言っています。

此歌ハ稲垣千頴ノ作ニシテ學生ガ數年間勧學シ蛍雪ノ功ヲツミ業成リ事遂ケテ學校ヲ去ルニ當リ別ヲ同窓ノ友ニ告ケ将來國家ノ為ニ協心戮力セン事ヲ誓フ有様ヲ述ヘタルモノニテ卒業ノ時ニ歌フヘキ歌也樂譜ハ是亦蘇格土蘭〔ママ〕ノ古傳ニ出テ其作者ヲ詳ニセス然レドモ其意ハ告別ノ際自他ノ健康ヲ祝スルニアリトス

 伊沢は「蛍の光」を「学校を卒業するときに歌う歌」と言っているのですが、当時儀式としての卒業式とは直接関係はありませんでした。卒業式が儀式として学校に定着して、「蛍の光」が一般化して歌われるようになるのは大正末期から昭和初期にかけてです。その後卒業式の「蛍の光」は定番となっていきました。しかし、伊沢は「卒業の時に歌うべき歌」と定義づけていますから、「蛍の光」は後年、儀式としての卒業式で一般的に歌われるようになったのだと思います。また伊沢は、この中で、スコットランドでは「告別の際自他の健康を祝するにありとす」と言っていますが、バーンズの「遥かな遠い昔」では旧友と再会し、幼少のころの思い出を語るという内容なのです。

   〈遥かな遠い昔〉
    古い友達づき合いの思い出が忘れられようか、
     心によみがえらぬはずがあろうか。
    古い友達づき合いの思い出が忘れられようか、
     長い長いつき合いの思い出が!

      コーラス
       君、長いつき合いだったね、
         本当に長い年月だった。
       変わらぬ間柄を祝って一杯いこう、
         長く長くつき合ってきたのだから。

    いいか、その大コップは干さなきゃいけない!
     こちらも絶対に干すつもりだ!
    こうして親しいつき合いだったことをお祝いしよう、
     遠い遠い昔のために。
       (東浦義雄訳、『増補改訂版 ロバート・バーンズ詩集』国文社、2009)

 ロバート・バーンズの原歌詞を読めば、それが「別れの歌」ではないことが一目瞭然です。「旧交を温める」歌なのです。もう少し厳密に言うならば、「長い長い間離れ離れになっていた懐かしい友に再会できた。昔を思い出しながら飲もうじゃないか」ということになります。「別れ」というニュアンスもあるのでしょうが、英米に目を向けると「遥かな遠い昔」は大晦日のカウントダウンが「ゼロ」になって新年を迎えるとA Happy New Yearという掛け声とともに歌われます。また年明けから1週間くらい、エディンバラの街角でバグパイパーが「遥かな遠い昔」を演奏する姿が見られるようです。
 「紅白歌合戦」のフィナーレで歌われる「蛍の光」は、去りゆく年を惜しむといった気持ちで歌われます。しかし英米では去りゆく年に重きが置かれるのではなく、「新年を歓迎する、新しい年に再会することができてうれしい」という気持ちに重点が置かれているのです。
 英米でも「別れの場」で「遥かな遠い昔」が歌われますが、その真意は「別れ」ではなく、「(今はここでお別れしますが、)昔馴染みを忘れないで、いつか再会しましょう」という気持ちが込められているのです。しかし伊沢の解釈では「学校を去るに当たり、別れを同窓の友に告げる」とか「卒業の時に歌う歌」とか「告別の際自他の健康を祝す」などと、とにかく「別れ」一辺倒です。おそらく、伊沢は「遥かな遠い昔」が歌われる場面に居合わせて、「これは別れの時に歌う歌」だと思い込んでしまったのだと思います。
 音楽取調掛が『小学唱歌集』を編纂したとき、この「遥かな遠い昔」に適切な歌詞をつけるように稲垣千頴に命じたのは伊沢でした。そこで伊沢は自分が知る「遥かな遠い昔」についての情報を稲垣に伝えました。伊沢は「遥かな遠い昔」を「別れの時に歌う歌」だと思い込んでしまっていたので、稲垣の歌詞も当然「別れの歌」になってしまったのでしょう。「蛍の光」は伊沢の誤解、思い違いの産物といえるかもしれません。
 「蛍の光」は「遥かな遠い昔」が持つ雰囲気をある程度伝えてはいるのでしょうが、そういえるのも1番と2番の歌詞だけです。「蛍の光」に3番と4番があったことを皆さんご存じですか。

〈蛍の光〉3・4番
3.筑紫のきわみ、みちのおく、    4.千島のおくも、沖縄も、
  海山とおく、へだつとも、         八洲のうちの、守りなり。
  その真心は、へだてなく、        至らんくにに、いさしおく。
  ひとつに尽せ、国のため。        つとめよ わがせ、つつがなく

 1番、2番にみられる「別れ」とは全く別物です。国防の歌、国家主義の歌です。まるで軍歌です。これは先ほど引用しました伊沢の意見の中にも、「将來國家ノ為ニ協心戮力セン事ヲ誓フ有様ヲ述ヘタルモノニテ卒業ノ時ニ歌フヘキ歌也」とあるので、その精神で書かれたものです。また興味深いことに4番の歌詞は日本か戦勝を重ねるたびに沖縄が台湾になり、さらには「台湾の果ても樺太も」と時勢に会うように修正されていきました。
 この4番まである「蛍の光」は敗戦まで教育の場で歌われていました。戦前「蛍の光」は3,4番が一番大事で、これがなければ「蛍の光」は成り立たないと言われていたそうです。
 このように「蛍の光」は日常生活の場で定着し、日本古来からの歌であるかのように歌われてきました。外国でこの曲のメロディーを聞いた日本人が「おい、聞け。日本の歌がこんなところまで進出しているぞ」と言ったという話もあります。
 商店などで閉店のとき流れる「蛍の光」は、よく聞くと我々が卒業式のときに歌う「蛍の光」とは若干趣が異なります。これはヴィヴィアン・リーとロバート・テイラーが主演した映画『哀愁』(原題Waterloo Bridge)に由来するものです。1940年の製作ですが、1949年に日本で公開されるや老若男女を席巻しました。別れのダンス・シーンで「蛍の光」(「遥かな遠い昔」)のワルツのメロディーが流れると、なぜアメリカ映画に「蛍の光」が演奏されるのかと疑問に思った日本人も多くいたと聞きます。またこのワルツのメロディーが非常に印象的であったため、日本コロムビアが音源を捜したところ、契約外のレーベルだったので、作曲家古関裕而が採譜とアレンジを行い「別れのワルツ」を作ったのです。甘美なワルツ風の「蛍の光」が非常に好まれ商店の閉店ソングとして定着していきました。演奏は「ユージン・コスマン楽団」でした。当時これを聴いた人は外国の楽団とばかり思っていたそうです。ところがこの楽団名は編曲者の「古関裕而」をもじっているのです。コスマンが古関で、ユージンが裕而です。
 どうでもいいことではありますが、ウォータールー・ブリッジを数寄屋橋に変えてリメイクしたものが往年の名ドラマ「君の名は」だそうです(ネットからの拾い物なので本当かどうかわかりません)。
 「蛍の光」の元歌「遥かな遠い昔」は英米では卒業式の歌ではありませんし、商店の閉店のテーマ音楽でもありません。1964年の東京オリンピックの閉会式で演奏されたとき、英米人の中には違和感を持った人もいたといわれています。伊沢修二の誤解が現在に至るまで延々と尾を引いているのです。2020年の東京オリンピックでも「蛍の光」は演奏されるのでしょうか?