一般教育

2010年7月 7日 (水)

1168年前の「犬矢」 ― 磐下 徹講師

 今回は1168年前の7月7日(旧暦)のニュース解説をします。

 『続日本後紀』承和9年(842)7月7日条には次のようにあります。
 

「夜中、犬矢於御在所版位之上。(夜中、犬、御在所の版位の上に矢す。)」

 「御在所」とは当時の仁明天皇が居住していた御殿である清涼殿のこと。「版位」とは、その御殿の前庭で儀式などが行われる際、参加した貴族や役人たちの立ち位置を示すために地面に置かれた目印のことです。
 

 では「矢」とは何でしょうか?「矢」といっても「弓矢」の「矢」ではありません。
 

 この「矢」は「糞」を意味しています。ですから「犬矢」とは「犬の糞」のことです。したがってこの日の記事は「夜中に、犬が天皇の居住する清涼殿の庭で糞をした」という意味になります。今から1168年前の7月7日は、「犬の糞」により歴史上に記録されたということになります。
 
 ところでこの『続日本後紀』とは、天長10年(833)~嘉祥3年(850)までの日本の歴史をまとめた書物で、国家の命令で編纂されたものです(貞観11年(869)成立)。このような歴史書は奈良・平安時代を通じて6つ編纂され、「六国史」と総称されています。『続日本後紀』はその第4番目に位置するものです。
 

 ですから『続日本後紀』のこの記事は、国家の公的記録ということになります。「犬の糞」が公的記録に残されるということは、現在の私たちからすれば違和感のあるところです。しかし、何らかの理由があったからこそ、この「犬の糞」事件は記録に残されたのです。いったいどのような理由があったのでしょうか?

 平安時代の人々にとって、「犬矢」は「怪異」と認識され、良くないことの起こる前兆だと考えられました。例えば承平2年(932)7月5日には、「紫宸殿(重要な政務や儀式が執り行われた施設)の版位に「犬矢」が残されていた。そこで陰陽寮に占いをさせたところ、「兵革」(戦乱)に注意すべきであるという結果が出た」と記録されています(『小右記』長元3年9月16日条所引)。このように「犬矢」が残されていれば、それは良くないことが起こる前兆(この場合は戦乱)であり、それが何の前兆なのかを特定し、為政者たちは対策を講じなければならないのです(ちなみにこの3年後に、関東では平将門の乱が、西日本では藤原純友の乱が起こっています)。
 

 「犬矢」の示す前兆を特定する際には、安倍晴明で一躍有名となった陰陽師たちが活躍しました。先に出てきた陰陽寮は、陰陽頭を筆頭に陰陽師など陰陽道の専門家から構成される中央官庁です。彼ら陰陽道の専門家たち(彼らはいわば官僚です)によって占いが行われ、「犬矢」などの「怪異」が意味するところが特定されたのです。
したがって今風に表現すれば、「犬の糞」をきっかけに中央官庁に調査が命じられ、その「犬の糞」に関する調査結果をもとに、閣僚たちが閣議の場で対策を議論した、ということになるでしょうか。
 
 ですから、承和9年の場合も、天皇の御殿(清涼殿)という国家の中枢空間に残されていた「犬の糞」の持つ意味が、真剣に検討されたと考えられます。
 今の私たちからすれば、馬鹿げたことに思えます。しかし、当時の人々からすれば、とても重大な事件だったのです。だからこそ『続日本後紀』という国家の公的記録にも、この承和9年の「犬の糞」事件は記録されたと考えることができます。

 ところが、この「犬の糞」事件は、そう単純でもないようです。

 「犬矢」のような「怪異」は、良くないことの前兆だと考えられました。そのような視点で『続日本後紀』の続きを読んでいくと、注目される記事に行き当たります。それは承和9年7月17日条、「犬の糞」事件から10日後の記事です。

 この日、伴健岑と橘逸勢の謀反が発覚します。彼らが当時皇太子であった恒貞親王とともに東国(美濃国(現在の岐阜県)以東の地域)に入り、現朝廷に対し反乱を起こそうとしているというのです。この二人を中心とした関係者たちは身柄を拘束され、平安京には厳戒態勢が敷かれました。さらには、京に至る主要交通路も封鎖されました。これは事件関係者の逃亡を防ぐためです。

 この事件の結果、皇太子恒貞親王は廃され、かわって道康親王が皇太子となります。のちの文徳天皇です。これが「承和の変」と呼ばれる平安時代を代表する政治事件です。
この変の評価については意見の分かれるところですが、結果的に皇太子となった道康親王は、当時政界で勢力を伸ばしつつあった藤原良房の妹の子で、この良房がいわゆる摂関政治を創始し、藤原氏全盛期への道を切り開いた人であることを考えれば、この事件が後の歴史に大きな影響を与えていることは間違いないでしょう。
「犬の糞」事件の10日後に、このような大事件が起こっているのです。

 もちろん、本当に7月7日に「犬矢」が清涼殿の庭に残されており、それが見事に変を予兆していたと単純に考えることもできるでしょう。確かに「犬矢」の「怪異」は、現在の私たちには想像できないほど平安時代の人々に深刻に受け止められていました。とはいえ承和の変の10日前に都合よく「犬矢」の「怪異」記事が載せられているのには何らかの作為が感じられます。

 そこで注目されるのが『続日本後紀』の編者の一人である春澄善縄という人です。

 善縄は陰陽道に高い関心を寄せた人でした。そして陰陽道は、「犬矢」など「怪異」と深くかかわる思想です。すると、『続日本後紀』の編纂に際し、承和の変の10日前に慎重にも「犬矢」の「怪異」の記事を配したのは、誰あろう春澄善縄だったのではないでしょうか。
「犬の糞」事件が全くのフィクションだったとはいいきれないでしょう。しかし清涼殿の庭に「犬矢」が残されていたという「怪異」が重視され、『続日本後紀』の記事として残された背景には、その10日後に起こった承和の変を前提とした善縄の意向が働いていたのではないでしょうか。

 しかもこの善縄は、承和の変で廃された皇太子恒貞親王の家庭教師(東宮学士)を務めていたため、事件後に処罰を受けています。善縄が「犬の糞」に込めた思いは、かなり複雑なものだったのではないでしょうか。

 今から1168年前の7月7日は、平安宮の清涼殿で、政治臭をプンプン漂わせた「犬矢」が発見された日だったのです。

 犬の糞にも歴史あり。

2010年5月27日 (木)

欧州チャンピオンズリーグFINAL ― 山口 重信講師

 サッカーの欧州チャンピオンズリーグ(CL)は22日、決勝を行い、インテル(イタリア)がバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)に2―0で勝利し、45年ぶりの欧州制覇を果たした。インテルは国内リーグ(セリエA)・イタリア杯を制覇し、バイエルンも国内リーグ(ブンデスリーガ)・ドイツ杯を今年度制覇した。共に3冠がかかった大一番であったがインテルがセリエAクラブ史上初の3冠を達成した。

 インテルを率いるモウリーニョ監督は、バイエルンのファンハール監督がバルセロナ(スペイン)を率いた1997年から2000年までアシスタントコーチとして同じベンチに座った。いわゆる「師弟対決」であること。決勝が行われたスペインのマドリードにあるサンティアゴ・ベルナベウスタジアムはリーガ・エスパニョーラに所属するレアル・マドリードの本拠地であり、現在インテルの背番号10スナイデル、バイエルンの背番号10ロッベンが昨シーズンまでプレーしていた場所であり、戦術・勝敗以外にも決勝がこのような対戦になったことに興味深さと人間模様を感じる。

 スナイデル(インテル)、ロッペン(バイエルン)の2人はともにオランダ代表選手。そう来月から始まるワールドカップで日本(SAMURAI BLUE)は予選リーグでオランダと対決するのだ。マスメディアからは日本代表の闘いに対し、連日さまざま報道されているが、結果は後からついてくるもの。日本代表が今まで積み重ねてきたものを信じ応援したい。 「人間万事塞翁が馬」、まったく禍福というのは予測できないものである。

2010年5月20日 (木)

見せたい番組・見せたくない番組・見てもらいたい番組 ― 田島 祥講師

 5月14日に、日本PTA全国協議会が「子どもとメディアに関する意識調査」の結果を発表しました。小学5年生、中学2年生及びその保護者に対して実施されたこの調査では、「子どもに見せたくない番組」の結果がメディアに取り上げられる項目として有名です。上位に入る番組は毎年ほとんど変化はなく、「内容がばかばかしい」「言葉が乱暴である」といった理由から保護者に敬遠されていることがわかります。

 メディアに取り上げられるのは「子どもに見せたくない番組」が多いですが、この調査では「子どもに見せたい番組」についても質問されています。平成21年度は「世界一受けたい授業(小・中学生)」「Qさま!! (小・中学生)」「ダーウィンが来た!(小学生)」「天才!志村どうぶつ園(小学生)」「週間こどもニュース(小学生)」「プロフェッショナル 仕事流儀(中学生)」「JIN-仁-(中学生)」が上位に挙がっていました。「知識が豊富になる、学習の助けになる」「役に立つ」「面白い」「家族だんらんの時間が持てる」等が、保護者から好まれる理由のようです。特に前者2つは、“番組からの学び”を期待しているのだと考えることができます。

 テレビ番組の影響については、一般に悪影響が懸念されることが多いですが、テレビ視聴がもたらす良い影響についても研究が進められています。これまでに分かっている知見として、①全般的なテレビ視聴は、子どもの知能や学力、創造性や想像力を低めることが示唆されているものの、その影響は番組の内容によって異なること、②暴力的な番組の視聴が多いほど、子どもの学力や創造性が低くなること、③教育番組は子どもの認知能力を高める効果があること、などが挙げられます。これらの研究は子どもを対象にしたものであるため、大学生や成人への影響とは異なる可能性があることや、欧米の研究が中心で、日本の番組を対象とした研究は少ないことなどをふまえておく必要がありますが、教育的な番組は、視聴者に良い影響をもたらす可能性があると考えることができます。

 教育的な番組としては、NHKによる教育番組が真っ先に頭に浮かびますが、最近では民放局によるバラエティ番組でも、知的な内容を豊富に含んだ番組が多くみられます。楽しみながら様々な知識を得ることができる番組が多く提供されていることは、“番組からの学び”という保護者の期待に応える上でも、とても良い流れだといえます。

 最後になりますが、民放連が発表している「青少年に見てもらいたい番組」をご存知でしょうか。毎年春と秋の2回、「青少年の知識や理解力を高め、情操を豊かにする番組を各放送事業者は少なくとも週3時間放送する」という民放連の取り組みに基づいて、各放送局が指定した番組の一覧です。上述の「子どもに見せたくない番組」「子どもに見せたい番組」に比べて、ほとんどメディアには取り上げられていませんが、つい先日2010年春の番組が発表されました(民放連のHP参照)。推奨する理由も添えられていますので、保護者の考える「子どもに見せたい番組」と比べてみるのも面白いかもしれません。

2010年5月 6日 (木)

日本語能力試験の改訂について思うこと ― 小池 康講師

 みなさんは「日本語能力試験」というものを知っていますか。おそらく留学生の読者の方なら聞いたことがあると思います。中には、受験したことがあったり、1級や2級の認定を受けた人もいるのではないでしょうか。
 日本語能力試験は、日本語を母語としない人を対象に、公的に日本語能力を測定し、認定することを目的として、1984年より毎年一回実施されてきました(ただし、2009年は1、2級のみ二回実施)。単に日本国内だけではなく、海外の49の国や地域でも実施され、全世界で50万人以上が受験しました(2007年度)。
 試験には1級から4級までの四つのレベルがあり、受験者は自分の必要とするレベルの試験を受けます。各レベルとも「文字・語彙」「聴解」「読解・文法」といった三種類の内容から構成され、総合得点で一定の得点以上ならば、その級(レベル)の日本語能力があると認定されます。

 さて、このように四半世紀にわたって行なわれてきた日本語能力試験ですが、今年2010年より、レベル的にも内容的にも新しい形となって生まれ変わります。
 まずレベル的には、認定される級の数がこれまでの四つから五つになります。新しく設定された級はそれまでの2級と3級の間のレベルに相当するもので、これまでの試験では3級までは比較的簡単に取得できたが、2級になるとなかなか取得できなかったという事情を踏まえたもののようです。3級から2級に上がれず、日本語への学習意欲が減退してしまった人も多かったようですが、今回の改定には、そのような人を減らし、学習意欲を維持させる目的もあると思います。
 内容的な変化としては、実際に「使える」日本語の能力を測ろうとしていることです。これまでは、1級を持っている外国人でも日本人とのコミュニケーションに難点がある人もいました。つまり、日本語の知識はあるけれども、場面や状況の違いに応じた適切な表現の選択ができない人が多かったということです。今回の改定によって、日本語の知識と共に日本語を適切に使える力(「運用能力」と言います)の両方をレベルアップさせるような日本語教育がより進んでいくものと思われます。

 さて、ここでふと気になったことがあります。確かに日本語を学ぶ外国人に日本語の知識とその適切な使い方を教えることはとても重要です。では、逆に今の日本人にどれだけ日本語の知識と適切な運用能力があるでしょうか。みなさんは、どんな相手に対しても相手に配慮した日本語を使える自信はありますか。また、場面や状況に応じて日本語を使い分ける自信はありますか。日本で生まれ、日本で育ち、日常生活で日本語を使っているからと言って、日本語が適切に使えているかと改めて聞かれるといささか自信がなくなるのではないでしょうか。
 このたびの日本語能力試験の改定は、我々にとっても日本人が見失いかけているものを再確認・再認識するきっかけにもなりうるものだと思います。ですから、みなさん、この日本語能力試験の試験問題を見る機会があったら、ぜひやってみて下さい。そして、自分の日本語がどのくらいのレベルなのかを確認してみて下さい。
 意外と、外国人に近い日本人になってしまうかもしれませんね...。

2010年1月20日 (水)

事業仕分けとスポーツ・大学体育

天野勝弘 准教授

 はじめに:前半部分は飛ばしても構いません。後半部分を述べる理由作り部分ですので。その意味で、タイトルもややこじつけです。

 昨年行われた政府の事業仕分けで、スポーツ関連について話題を呼んだのは、仕分け人から「五輪は参加することに意義があるのではないか」「ボブスレーなどマイナーな冬季競技を支援する必要があるのか」などというマイナースポーツ切り捨て論が出たことである。これらを理由として、結局32億円あまりの日本オリンピック委員会への補助金が削減された。これに対して、マイナースポーツ関係者からは一斉に批判の声が上がった。とりわけ、北京五輪のフェンシング競技で銀メダルを獲得した太田雄貴は、「強化と普及」、「マイナースポーツの現状」という観点から異論を唱えた。

 スポーツの経済性は、近代化の過程の中で、スポーツの有する勝・敗という2次元コードが商業化され、それをとりまくスポーツ経済社会ができあがったことを考えれば、なりたつ議論である(競技スポーツ)。かつて、女子プロゴルファーの上田桃子が、テレビ番組で「先のないスポーツ」発言をして物議を醸したことがある。彼女がゴルフを始めた動機は、ゴルフでお金を稼ぐことにあった(障害のある姉がいるためと説明)。その意味で、プロとよべる世界がない、あるいはあったとしても十分でない「先のないスポーツ」を、友達が一生懸命していることがわからなかったというのである。当然のことながら、名指しされたスポーツ団体を始め様々なところから批判が寄せられた。その後上田は「私にとっての先のないスポーツ」という意味であると釈明するとともに、彼女の発言で傷ついた方々にお詫びするとの謝罪コメントを発表している。

しかしながら、そもそもスポーツは、本来的意味では遊技であり(レクレーショナル・スポーツ)、経済的効率性とはなじまないものである。音楽や他の芸術と同じように、生きていきためには不可欠かと問われれば、NOと言わざるを得ない。大学で行われているクラブ活動も、社会の注目を集めている一部のスポーツを除けば、レクレーショナル・スポーツである。大学時代にかなりの成績を残したとしても、卒業後にその競技で食べていかれる人はほんの一握りである。生きることすら不安な経済情勢にあっては、そうした遊びは切り捨てられる方向にある。そこで、そんなことを大学時代に真剣にやる意味があるのかという意見は多い。そもそも、教育(大学)も経済性とは縁遠いところにあるが、今日では大学にも求められている。これまで、あまりにも効率と言うことを考えてこなかった“つけ”が回ってきているということは認めるが、事業仕分けに代表されるような、経済効率性一辺倒の考えはとても容認でるものではない。

 ひとりの女子学生が私のところに質問にきた。その授業では、期末にレポートを提出させている。課題は「自分のためのトレーニング・メニューを作る」というものである。まず、トレーニングの目的をはっきりさせ、その目的実現のための具体的内容と根拠を示さなければならない。

彼女が作ろうとしているメニューは(水)泳力を養うもので、フィン(足ヒレ)をつけて300mの距離を目標タイム以内で泳ぐためのものであった。現在、彼女は、後半バテてしまうことが原因で、そのタイムをクリアできないという。では、なぜそのような泳力が必要なのか、それはスキューバ・ダイバーの初級の資格を取得するためである。ではなぜその資格なのか。

彼女は小さい頃から(たぶん小学生)、両親に連れられて、毎年沖縄の離島に遊びに行っていたそうだ。そこで目にし、知ったことは、きれいなサンゴ礁が年々失われていく光景であった。今、彼女はサンゴ礁を守ろうと考えている。そうした仕事(まだ具体的ではないようだが)に就きたいと考えている。

サンゴ礁消滅の危機は、人間の出す生活排水だったり、開発による海への土砂の流入だったりする。人間が生きていく、生活していく上では仕方ない部分もある。彼女もこのことを認めている。しかし、両者の折り合いをつける線や方法が必ずあると信じている。また、それを見つけたいと願っている。

彼女がその仕事に就くためには、サンゴを直接調査できなければならない(と彼女は考えている)。そこで、先のスキューバ・ダイバー初級の資格を今(1年生で)とりたいのだという。

人間とサンゴとの折り合いをつけるということは、経済的効率性という視点も含まれるだろう。しかし、彼女が抱いた夢は、そんなところからは生まれていない。

彼女は、子どもの頃に出会ったかけがえのないものを守りたいという夢を抱いて、その実現に向けて、今できることをしている。

事業仕分けや経済的効率性からは決して生まれない、このような行動があるということを、いつまでも忘れないでいたい。

2010年1月14日 (木)

普天間基地移設問題と八ツ場ダム問題――NIMBYが問いかけるもの

経済学部 松林 秀樹 講師

 普天間基地の移設問題と八ツ場ダムの問題。

 一見すると、昨年の後半から話題になっているということ、および民主党政権の今後の対応に注目されるということ以外に、特に共通点はない問題のように思えるかもしれない。しかし、この2つの問題には、共通して考えるべきテーマが隠されている。

 まずは、それぞれの経緯を簡単に見ておこう。

 普天間基地は、太平洋戦争における沖縄戦のさなかに、アメリカ軍によって占領された現在の宜野湾市に飛行場が建設されたことに端を発する。その飛行場は終戦後も維持され、1950年代以降、アメリカ陸軍(現在は海兵隊)の基地として整備されていった。その後、1995年にアメリカ兵が日本人女性に対する暴行事件を起こし、沖縄全体で基地反対・返還運動が起こったこと、および2004年に普天間基地のヘリコプターが近隣に墜落する事故があったことなどをきっかけとして、辺野古崎沿岸部への移設が日米間で合意された。しかし現在の民主党政権は、日米合意の再検討を示唆し、今年の5月まで結論は先送りされたままになっている。

 八ツ場ダムは、1947年のカスリーン台風による大きな被害を教訓として、利根川の上流にダムを築いて下流域の洪水被害の軽減を図るために1949年に計画されたダムである。計画当初はそうした治水面のほか、人口の増加が予想される首都圏の水源(利水)としての役割も期待された。その後、支流から強酸性の水が流れ込んでいることから計画は一時中断されたが、水質改善策が功を奏したことにより、1967年に現在の場所にダムを作る計画が決定された。その直後から水没する地域を中心としたダム建設反対運動が起こり、行政と住民の対立が続いていたが、その転機となったのが、1973年に制定された「水源地域対策特別措置法」および1980年に行政より提出された「生活再建計画」であった。これらに基づき、行政と地元住民の話し合いが行われ、1992年に「八ツ場ダム建設事業に係る基本協定書」および「用地補償調査に関する協定書」が締結されたことにより、ダム建設が前進することになった。しかし、近年の公共事業の見直し論や、昨年夏の衆議院選挙によって政権党となった民主党がマニフェストのなかで八ツ場ダム建設中止をうたっていたことから、予算規模も含めてダム建設の是非が問われるようになっている。

 この2つの「問題」から、はたして何が見えてくるのか。

 ここで、サブタイトルに挙げた“NIMBY”という概念が登場してくる。NIMBYとは“Not In My Back Yard”という言葉の頭文字をとったもので、直訳すれば「裏庭はやめてくれ」ということになる。その意味するところは「(基地やダムなどの)施設が必要で、どこかになければならない、というのは分かる。でも、作るとしても自分のところはやめてくれ」という考え方である。

NIMBYという概念は、原子力発電所、産業廃棄物の処理場、火葬場など、一般的には「迷惑施設」と呼ばれるものが建設されようとする場合に登場してくる。上記の通り、そういった施設がなければいろいろと問題が発生することは分かるが、だからといって何も自分のところでなくてもいいだろう、という考え方のことだ。一般的にはダムを迷惑施設に分類することはないが、「なぜ他の地域の生活・産業のために自分のところが水没しなければならない?」という疑問は、NIMBYとして分類することができるだろう。こうした考え方は、「総論賛成、各論反対」という言葉でも表現される。

アメリカ軍の基地は、(良いか悪いか、およびその存廃をめぐる議論はひとまずおいて)戦後日本の安全保障体制を支えてきたものであり、(現状では)どこかになければならない。ダムにしても、電力供給という側面も含めて、まったくいらないというものではない。つまり、どこかで誰かが不利益を被る必要が出てくるのである。

実は、こうした状況はこの2つの事例に限った話ではない。極端にいえば、戦後日本のありとあらゆる地域で起こり、戦後日本の政治・政策・公共事業の「問題」を通底している。以前は、NIMBYのような考え方は「地域エゴ」といわれることもあった。つまり、迷惑施設の建設反対運動をしている地域住民に対して、「それ(施設)がなかったら、多くの人が困ることが分かるのに反対するのか?」という目で(他の地域から)見られることがあった。

しかし、政治・政策・公共事業というものはすべての人に「幸福」をもたらすために行われている、という理念的な前提に立てば、「多数の幸福のために少数を犠牲する」ことは許されることではないだろう。はたして、こうした政治・政策・公共事業の問題は、どうすれば「最善」の策を見出すことができるのか。どうすれば不幸な人を生み出さずに「社会の要求」を満たすことができるのか。

もちろん、基地やダムというのはどこにでもあるものではない。迷惑施設にしても、頻繁に建設されるものではないし、さほどの数を必要とするものでもない。普天間基地や八ツ場ダムの問題は、多くの人にとって無関係・無関心なものとなっているだろう。しかし、その現場にいる人にとっては“My Back Yard”に現れた、抜き差しならない問題となっている。そして、現在は無関係・無関心である人でも、ある日突然、同じような状況に置かれる可能性は十分にある。

普天間基地と八ツ場ダム。この2つが提起する「古くて新しい問題」を、ぜひとも多くの人に考えてもらいたいと思う。

2009年11月 4日 (水)

携帯型音楽プレーヤーの「危うさ」

                  経済学部教授 高瀬 博

 欧州連合(EU)の執行機関、欧州委員会は、928日、米アップル社の「iPod」などの携帯型音楽プレーヤーに音量制限を設けると発表した。各メーカーは、製品の最大音量を80デシベル以下に抑えるよう義務付けられる。2年以内に技術水準を定め、それ以降発売される新製品に適用する。欧州委は、「使用者を聴覚障害から守るため」としている。現状では最大音量は、多くの製品ではロックコンサートに相当する100デシベル以上に設定されており、毎日、1時間、100デシベルで音楽を聴き続けた場合、5年後には完全に聴力を失う危険があるという。【読売新聞】 この記事を読んでから、満員電車の中で、「シャカ♪ シャカ♪」という音楽を漏れ聞くと、不快であるより、心配になる。

 筆者は、違う視点で「携帯型音楽プレーヤー」に「危うさ」を感じている。

ある朝、知人が前を歩いていたので「おはようございます」と声をかけたが応答が無い、案の定、音楽に没頭していたのである。この程度なら罪はないが、私たちの周りには、たくさんの「危険因子」が存在する、交通事故はその代表である。今話題の「ハイブリッドカー」は、その静粛性ゆえに、歩行者に危険であるという理由で、わざわざ「エンジン音」を追加しようということである。人間は「五感」全てを発揮して自己の「身の安全」を図らなければならないということである。

 マナーの面では、「礼」を失することがある。数年前から受講中に、イヤフォンをつけている学生を見かけるようになった。それは「私は、出席をし、ノートはとるが、あなた(教員)の話は聞いていない」という意思表示に他ならない。

就職超氷河期といわれる中、企業は採用にあたり、学生の「コミュニケーション力」「明るさ」などを求めているといわれるが、それ以前に、最低限のマナーを守れる「人間性」を大前提としている。

2009年7月 2日 (木)

「いしかわ子ども総合条例」について思う

水野考 講師


 629日、石川県議会は、小中学生に携帯電話を持たせないよう保護者が努める規定を全国で初めて盛り込んだ「いしかわ子ども総合条例」改正案を387の賛成多数で可決した。具体的には、次の条文である。第33条の21「保護者は、特に小学校、中学校、中等教育学校(前期課程に限る。)及び特別支援学校(小学部及び中学部に限る)に在学する者には、防災、防犯その他特別な目的のためにする場合を除き、携帯電話端末等を持たせないよう努めることとする。(議会議案第1号)」。20091月に文部科学省は、各県の教育委員会等に向けて携帯電話の取り扱いに関する通知を行っており、石川県の条例は、この通知をより一歩具体に進めたものといえよう。

 一般的に、携帯電話に関わって行われる行政や学校の取り組みは、携帯を介して起こる様々なネット犯罪(例えば1.学校裏サイトの問題に代表されるような、ネットを介したいじめ。2.出会い系サイト等を介して起こる誘拐や性犯罪等)から子どもを守ることである。この目的を達するため、ネットに接続できるキャリアの中で、子どもにとって一番身近にある携帯電話の使用に規制(フィルタリング等)をかける、児童生徒はもとより保護者に対してもネットモラル講習等を行う、といったことが行われている。

 このような取り組みが諸所で行われる中、新たに改正された石川県の条例は、「携帯電話端末等を持たせないように努める。」としたところに特徴があろう。あくまでも努力義務にとどまり、罰則規定はない。かつ、他の条文には、「携帯電話端末等の適切な利用に関する取組の促進に努める」と明記されている。これらのことから、上の一文は、全体的な取り組みの一つであることがわかる。しかし、「持たせない」という一言には、物議をかもすのに充分なインパクトがある。

筆者は、このニュースを読み、次の2点に疑問を持った。第1には、携帯電話を「持たせない」ことは可能であるのかどうか、第2には、「持たせない」ことによって子どもをネット犯罪から守ることができるのか、である。

1について筆者は、可能であると思う。保護者の許可がないと、未成年の者は携帯電話を購入することができないからだ。しかしその場合、子どもを説得するのに骨がおれそうだ。そう考える理由は、以下の3点である。

 まず、すでにある程度の人数が携帯を持っていることである。科学省から20092月に発表された「子どもの携帯電話等の利用に関する調査:調査結果(速報)の概要」によると、小学校6年生の24.7%、中学校2年生の45.9%、高校2年生の95.9%が携帯電話を保有している。小学校では、4人に1人を割り込んでおり、さほど多いとは言えないかもしれない。しかし、以下の場面のようなことは起こりえるだろう。

この場面は、以前、わずかな期間だけ放送されていたSoftBank「ただとも」のCMである。「ただとも」とは、ソフトバンクへの加入者同士だと、1時から21時の間、通話料が無料になるサービスである。

以下は、友達同士で携帯電話を使って連絡をとりあおうとしている場面である。

 

「わたしはいいよ、電話代かかるし」

「ああ、ソフトバンクじゃないんだ・・・」

「・・・っごめん」

【友達は大切に】(テロップ)

この事例は、すでに携帯電話をもっている友達同士の中でのことだが、持っていない者についても同様であろう。友達グループの中で携帯電話を持っている者が多数を占めれば、携帯電話を持っていない少数の者に同調圧力がかかる。この状況の中で、「持たない」でいることは大変難しいだろう。

 次に、最近の若者文化や仲間意識がネットのコンテンツとマッチしていることである。

土井隆義は、著書「友達地獄-空気を読む世代のサバイバル」の中で、最近の若者達の人間関係の特徴を、「きわめて注意深く気をつかいながら、なるべく衝突を避けようと慎重に人間関係を営んでいる」とし、このような関係を「優しい関係」と定義している。この関係の中で若者は、互いに慎重に距離を測りつつ、お互い対立しない範囲で自らのキャラを演出していく。

このような若者文化にあったコンテンツの例として、「Decoo」と「rigureto」をあげたい。「Decoo」は、今思ったことを可愛らしいくデコレーションして投稿でき、リアルタイムで仲間と共有できる。可愛らしさを追求するには、それなりに技術が必要なようだが、基本的にはユーザー登録をすれば誰でも投稿を行うことができる。具体的には、「お腹すいた~。」「暇すぎる~。」「カラオケ楽しい~。」といった呟きレベルの感想を仲間と共有することになる。

また、「rigureto」は、自分の中の「へこみ」を不特定多数の者に相談し、「なぐさめ」をもらうことのできるサイトである。このサイトでは、相談者にも回答者にもIDやハンドルネームがつかない仕様になっているため、誰が相談しているのか、誰が回答しているのかはユーザーにはわからない。具体的には、「最近彼が冷たい」であるとか、「待ちくたびれた」といったような相談が寄せられ、それについてなぐさめが寄せられることになる。

この2つのコンテンツは、土井が述べる若者文化や仲間意識にうまく答えていると思われる。「Decoo」は、仲間が何を感じているのか常に確認することができる絶好のコンテンツであるし、「rigureto」は、キャラ演出のために本音を仲間に語ることのできない若者が、自らのことを全くあかさずに「へこみ」を打ち明けられるコンテンツである。

土井は、若者にとっての携帯電話の役割を、「自らの周囲に張り巡らされた複数の他者からのメッセージを受信し、それらを三角測量することによって仲間うちでの自分の位置を割り出すことを可能にしてくれる」「社会的GPS」であると述べる。若者にとって携帯電話とは、人間関係をより円滑に保つために、なくてはならない道具になっているのであろう。

 最後に、低年齢の者でも容易に参入できるような携帯電話に対応しているコンテンツの登場である。文部科学省が行った同調査の中、「子どものインターネットの利用目的」をみると、主に携帯電話で「自分のプロフを公開する」や「自分のブログを公開する」について小学校、中学校と比べて高校の割合が突出して高い。このことは、自ら情報を発信するためには、それなりの主張や知識が求められている結果であると考えられよう。

 しかしながら、例えば先にあげた「Decoo」や「rigureto」の場合、一般的なブログと異なり、参入するのに必要なのは知識でも主張でも、面白いネタでもない。必要なのは、その時々に感じる気持ちのみである。

 このような、感情共有型ともいえるようなコンテンツの登場により、低年齢の者のネット世界への参入がより容易になることが考えられるだろう。

上記で述べてきたように、1.携帯電話を持っている者による同調圧力、2.ケータイによるネットのコンテンツと若者文化・仲間意識の相性の良さ、3.低年齢の者でも参入できるようなコンテンツの登場、の3つの理由により、筆者は、携帯電話は今後どんどん児童生徒に受け入れられるようになるのではないかと考える。このような状況の中で、児童生徒が携帯電話を「持たない」ことを自主的に選択するのはかなり難しいのではないだろうか。


 続いて第2、「持たせない」ことによって、子どもをネット犯罪から守ることができるのだろうか。この点について筆者は、守ることができないと考える。理由は、先から上げている調査による。「携帯電話やパソコン利用によるトラブル(携帯電話有無別)」からは、携帯電話を持っていなくても児童生徒がネット犯罪の被害にあっている様子がわかる。(本速報では、ネットに接続できる環境があり、携帯電話を持っていないものも、携帯電話無しグループにふくまれている。)

 例えば中学校では、「インターネットの掲示板やメールで悪口を書かれた」割合は、持っている者の6.0%、持っていない者の2.2%である。また、「携帯電話のカメラで撮られた写真が悪用された」割合は、持っている者の0.8%、持っていない者の0.2%である。さらに、「ネットで知り合った人と実際に会った(または会いそうになった)」割合は、持っている者の2.3%、持っていない者の1.0%である。これらのことから、自らが携帯電話を持っている、いないに関わらず、ネット犯罪の被害者になる可能性が十分にあることがわかる。

 以上のことから筆者は、現在では、子どもが携帯電話を持ちたがるのを抑えることはとても難しく、また、それが達成できたとしても、子どもをネット犯罪から守りきれるわけではないと考える。ネットのモラルを教える方がより重要であろう。

また、現在の若者文化を踏まえれば、携帯電話とどう関わって行くのが良いのか、そんな携帯電話との距離感を学ぶことも大切であろう。一般的に心理学の実験結果では、人と人がコミュニケーションを行うとき、言葉以外、例えば顔の表情や話し方等から得ている情報は85%~95%にのぼるといわれている。しかし携帯電話は、その情報の多くを損なうコミュニケーションの手段である。例えば、「今、怒っている!」と書いている人が本当に怒っているかどうかは、文字をみているだけでは判断できない。

携帯電話を介して得られた文字情報について、自分の中でどれほど適切に重みをつけられるのか。一度考えてみるのもよいだろう。

2009年6月24日 (水)

雑感

照山顕人 准教授

昨年末一書を刊行した際、内外の文献を渉猟することに難儀しましたが、今の世の中パソコンのおかげで、少なくとも文献の収集だけでも、僕の学生時代と比べればはるかに、楽になりました。

昨今のコンピューターの発達によって、僕のような機械音痴にも簡単な操作で捜し求めている文献がどこに存在するか、たちどころにわかります。どこかの図書館で所蔵している場合には相互貸借のシステムで、わざわざ遠方の図書館に行かなくても、郵便や宅配によって本学の図書館に届きます。1ページや2ページ程度の資料が必要であればファックスでその部分だけ送ってもらうことができます。古書店のサイトを使えば日本のみならず世界中の古書店の情報がわかり、注文を出すことができます。さらにグーグル・ブックスのサイトを使えば――著作権が切れている文献と思いますが――本1冊が丸々閲覧可能で、おまけにプリントアウトをすることもできるのです。大体僕が探す本といえば、1700-1900年代初期の古い本ですので、このサイトでほとんどが間に合ってしまい、非常に助かりました。

 でも今から30年前の僕が大学生だったころを思い起こすと、隔世の感を禁じえません。ある本を必要として、それが在学している図書館になければ、よその図書館にそれを求めるわけです。これは今と同じです。しかしパソコンはありませんから、機械がどこの図書館にあるか調べてくれることはしません。すべて人力なのです。当時図書館には、日本の大学図書館を横断検索できる蔵書目録(書名は失念しました。現在のNACSIS Webcatの冊子版です。)があり、それによって捜し求める本がどの大学図書館で所有しているかがわかりました。非常に大部なものだったので、調べるのも一苦労でした。かつてイギリスの古い文献が必要となりその目録で探したところ、関東圏では図書館情報大学(現、筑波大学)にしかないことが分かりました。禁帯でしたので、現地まで赴かなければならず、都心から筑波まで電車とバスを乗り継いで往復しました。帰りは夜になってしまいましたが、バスが1時間に1本程度しか運行されておらず、あぜ道の脇のバス停で真っ暗な中40分くらい待った記憶があります。捜していた本も見つかり、コピーも取れたという満足感で帰ってきました。今から思うと2時間も3時間もかけて、わずか数冊の本を探しによく行ったと思います。若かったから学問に対する情熱もあったのでしょうが、当時としてはそのほかの選択肢がなかったわけですから、仕方がなかったのです。みんなが同じ方法で研究に勤しんでいました。

海外の古書店に文献を求めるのも大変でした。僕は自分が探している本をリストアップして、スコットランド中の古本屋に郵送していました。何日か後に古書店から在庫の有無が郵便で返事が来ます。したがって1冊の本を探し出して、手に入れるまでに数ヶ月の期間を要しました。これだけの期間がかかるわけですから、入手したときには注文したことすら忘れているということも何回かありました。また海外の多くの古書店から定期的に古書のカタログが届くのですが、自分のほしい本がたまたま掲載されていると、他人よりも早く注文を出さないと、とられてしまいますから、しょっちゅう国際電報を打っていました。これだと24時間OKですから、電話より好都合でした。したがってファックスを据え付けた時は本当に便利だなと思いました。今では古書店もカタログなどは廃止して、独自のHPを立ち上げ、ネット上で在庫目録を公開しています。

 現地の図書館にもずいぶんと手紙で問い合わせをしました。先年エディンバラ市立中央図書館を訪れた時、僕がその昔送った手紙の束が残っていました。図書館ではどのような問い合わせがあり、それに対してどのような回答をしたか、記録として残しておくのだそうです。

今、論文を書く時などにはさまざまな文献をパソコンで調べますが、そんなとき学生時代のことが懐かしく思い出されます。しかしよくよく考えれば、僕の学生時代よりももっと昔の人はもっと苦労をして本を読んでいたはずなのです。

数週間前に図書館で岡本綺堂の随筆集を見つけました。綺堂(18721939)は明治中期に2代目市川左団次と組んで新歌舞伎の劇作家として活躍した人です。また小説家としても名を馳せた人でした。代表作は戯曲で「修禅寺物語」、小説では「半七捕物帳」があります。

その随筆集の中に「読書雑感」という筆海があり、綺堂が最も多くの本を読んだという明治20年代の読書事情が書かれています。当時の人々は、現代のわれわれに想像もつかないような苦労をして本を読んだ逸話が紹介されています。当時の読書事情を知るよすがとして、極めて興味深いので皆さんにご披露します。

それに付けても、わたしたちの若い時代に比べると、当世の若い人たちは確に恵まれていると思う。わたしは明治五年の生れで、十七、八歳即ち明治二十一、二年頃から、三十歳前後即ち明治三十四、五年頃までが、最も多くの書を読んだ時代であったが、その頃には勿論廉価版などというものはない。第一に古書の翻刻が甚だ少い。

したがって、古書を読もうとするには江戸時代の原本を尋ねなければならない。その原本は少い上に、価も廉(やす)くない。わたしは神田の三久(三河屋久兵衛)、という古本屋へしばしばひやかしに行ったが、貧乏書生の悲しさ、読みたい本を見付けても容易に買うことが出来ないのであった。金さえあれば、おれも学者になれるのだと思ったが、それがどうにもならなかった。

わたしにかぎらず、原本は容易に獲られず、その価もまた廉くない関係から、その時代には書物の借覧ということが行われた。蔵書家に就てその蔵書を借り出して来るのである。ところが、蔵書家には門外不出を標榜している人が多く、自宅へ来て読むというならば読ませて遣(や)るが、貸出しは一切断るというのである。そうなると、その家を訪問して読ませてもらうのほかはない。

日曜日のほかに余暇のないわたしは、それからそれへと紹介を求めて諸家を訪問することになったが、それが随分難儀な仕事であった。由来、蔵書家というような人たちは、東京のまん中にあまり多く住んでいない。大抵は場末の不便なところに住んでいる。電車の便などのない時代に、本郷小石川や本所深川辺まで尋ねて行くことになると、その往復だけでも相当の時間を費してしまうので、肝腎の読書の時間が案外に少いことになるには頗(すこぶる)る困った。

なにしろ馴染(なじみ)の浅い家へ行って、悠々と坐り込んで書物を読んでいるのは心苦しいことである。蔵書家といっても、広い家に住んでいるとは限らないから、時には玄関の二畳ぐらいの処に坐って読まされる。時にはまた、立派な座敷へ通されて恐縮することもある。腰弁当で出かけても、碌々(ろくろく)に茶も飲ませてくれない家がある。そうかと思うと、茶や菓子を出して、おまけに鰻飯などを喰わせてくれる家がある。その待遇は千差万別で、冷遇はいささか不平であるが、優待もあまりに気の毒でたびたび出かけるのを遠慮するようにもなる。冷遇も困るが、優待も困る。そこの加減がどうもむずかしいのであった。

そのあいだには、上野の図書館へも通ったが、やはり特別の書物を読もうとすると、蔵書家をたずねる必要が生ずるので、わたしは前にいうような冷遇と優待を受けながら、根よく方々をたずね廻った。ただ読んでいるばかりでは済まない。時には抜き書きをすることもある。万年筆などのない時代であるから、矢立(やたて)と罫紙を持参で出かける。そうした思い出のある抜き書き類も、先年の震災でみな灰となってしまった。(千葉俊二編『岡本綺堂随筆集』岩波書店、2007pp. 225-227初出は1933年)

 軽妙な筆致で綺堂は書いていますが、ご当人なかなかの辛酸を嘗められたことは想像に難くありません。綺堂は「金さえあれば、おれも学者になれるのだと思ったが、それがどうにもならなかった。」と書いています。当時は本ひとつ読むのも大きなお金が必要で、もちろん時間も必要だったことがうかがえます。

綺堂が、今の時代にパソコンの前に座り、東西古今の書籍をいながらにして閲覧し、ワープロという最新の矢立を使っている姿を想像するのは楽しいものがあります。

今の世の中は明治時代よりもはるかに研究環境がよくなったわけで、その分研究が進展したことはいうまでもありませんが、わが身を振り返ってみると、必ずしもそうではありません。どうして、僕の身についたサボリ癖というのは、そこから脱却するのが難しいようです。便利な世の中になると、人は往々にして「安直」に走り「切磋琢磨」ということを忘れてしまうものなのでしょうか、もちろんこれは僕自身[僕だけ]に対する警醒の言葉ですが。

岡本綺堂の随筆を目にし、ついつい自分の学生時代のことを思い出してしまいました。

2009年5月28日 (木)

フェルプスが抱えた新しいメッセージ

経済学部講師 石坂友司

 オリンピック北京大会で前人未踏の8冠を達成した競泳のマイケル・フェルプス(米国)が、今月の競技会に登場し、5種目中2種目で優勝した。しかしながら、このニュースは2012年のロンドン大会に向けて順調なスタートを切ったというものではなく、過ちからの再出発を報じるものであった。今年の2月、彼は大麻吸引の疑惑が報じられ、米国水泳連盟から3ヶ月の出場停止と強化費支給停止処分を受けていた。

 フェルプスは昨年11月に行われた大学のパーティーで大麻を吸引したと報じられた(正確に書けば、通常大麻の吸引に使われるパイプに口をつけている写真が掲載された)。フェルプスは早々に不適切な行為であったことを謝罪し、事実上吸引を認めている。ただし、彼自身が吸引を明言していないこと、吸引器の所持だけでは罪にならないなどの理由から、警察は証拠不十分として立件を見送った。

 大麻は世界反ドーピング機関(WADA)の禁止薬物に指定されているものの、処罰対象となるのは競技期間中に陽性反応が出た場合だけに限られる。従って今回のケースはメダル剥奪の処置には当たらない。ではなぜ米国水泳連盟は上記のような処分を下すことができたのであろうか。連盟の言い分はファンや関係者を失望させたこと、だそうである。

 フェルプスは、金メダルを獲得した2004年のアテネ大会後に飲酒運転で逮捕された経歴をもつ。汚名を返上した北京大会の活躍によって、彼のもとにはスポンサーのスピードやオメガなどから約500万ドルの報酬が入ったと報じられている。今回の一件で、食品会社のケロッグが契約を更新しないことを決めたが、メイン・スポンサーの多くは契約を続行し、市場価値の低下はそれほどではないと言われる。その理由はどこにあるのだろうか。

 通常、スポーツ選手がスポンサーなどから高額な報酬を受け取るのは、クリーンなイメージを付与される対価であり、スポーツにもたされた象徴力の大きさ故である。従って、スポーツ選手の日常生活は厳格に管理され、スキャンダラスな存在であってはならない。陸上女子のマリオン・ジョーンズ(米国)がドーピング違反によるメダル剥奪と偽証罪で禁固刑に服し、財産と社会的名声の全てを失ったことは記憶に新しい。一方で、今回の報道があくまでも吸引疑惑とされているところに、彼のポジションを守ろうとする米国オリンピック委員会とメディアの意図が感じられる。大記録を打ち立て、米国の年間最優秀男子選手として選ばれたフェルプスは米国にとってはなくてはならない存在である。

 彼に求められるのは偉大なオリンピック王者にふさわしい清純で、模範となるロールモデルである。また、今回仕組まれたのは「過ちを改める王者」というメッセージである。東京とともに2016年のオリンピック招致を目指すシカゴは、フェルプスをリードサポーターに起用し、街中に巨大な絵が掲げられているという。スポーツの神話を保持しつつ、選手の名声をも確保した今回の米国の判断と新しいメッセージは、度重なるドーピング使用で失墜したスポーツ界の信用回復となるのか、面白い問題を提起していると言える。

2009年5月18日 (月)

Improve Your Life Choices with Knowledge

Daniel L. Gossman教授


World Financial Crisis

Global Warming

War on Terror

Swine Flu

Somali Pirates

These topics are among the headlines in today’s news.  No matter what your present opinion on these world issues is, you can and should learn more about them.  The more you learn, the better informed your opinion will be.  One huge source of information about such issues is the internet.  Recent studies show that around 90% of the information on the internet is in English.  That means that learning English is one sure way to find more information about issues that are and will impact your life.

You have a great chance here at  Kanto Gakuen University to learn English which will help you get the information you need.  You have teachers who can teach you the English you need.  You have access to English resources in the library that will open avenues to information that may be valuable to you.  You have access to the internet where even more information can be found.  And you have the time and youth to learn English well.

Start learning for your future now!  The more time you spend learning now, the better such broad knowledge will help you make better decisions for you and for those around you.